磯崎憲一郎「見張りの男」(「文學界」7月号)の冒頭は次のようになっている。
《この子が大きくなったとき世界は大変なことになっているだろう、空気は汚れて鳥も空を飛べず、海や川は埋め立てられて魚が死に絶える、遠い国での戦争も終わることはない、そんな時代を逞しく生き抜いていけるとはとうてい思えないと悲観された、痩せ細って一日じゅう眠ってばかりいた小さな赤ん坊が、今ではもう五十歳だ。》
まずここで笑ってしまうのだが、このような急激な時間の折りたたみは磯崎さんの小説にはよくあることだとも言える。これにつづいて、《私が生まれ育った町には…》という文が連なり、様々な異なる主体に次々と憑依するものの、この小説の基底となる主体(語り手)として、この五十歳の《私》があらわれる。しかしここで忘れてはならないのは、語りの基底である《私》が現れるよりも前に、すでにその《私》を《そんな時代を逞しく生き抜いていけるとはとうてい思えない》という気持ちで眺めている眼差しが先行していることだ。この先行する眼差しは、この後《私》によって語られる母のものかもしれないし、この小説内には不在である父のものかもしれない。どちらにしても、語り手が現れるより前に語り手を見守る眼差しがあり、その眼差しのなかで語りが生起するという点は重要だと思う。
●ところで、この冒頭で述べられる悲観的な未来像はすでに過去のものである。これは、現在五十歳になる《私》が生まれた頃に想定された悲観的な未来だ。つまりこの冒頭の文を読むという経験は、未来に向かって進んでいると思われた時間の流れが、急激に後方へ押しやられるという時間の逆行的な経験であると同時に、いつの時代でも、子供が生まれると同時に、親となった人物はその子が生きてゆくことになる未来の像を必然的に思い浮かべるということも示している。つまりいつの時代にもその時代なりの「未来像」が存在する。未来像の中味はそれぞれの時代によって異なるとしても、否応もなく「未来像」が要請され想起されること、先へ向かう眼差しが生起すること、は、普遍的であると言える。
●どんな語り手(語り)にも、語り手がそのような語り手として育つのを見守る先行する眼差しがあり、そして、どんな過去にも、どんな未来にも、その時代なりの「未来像(前への眼差し)」がある。この小説全体を貫く、継起的で秩序だった時間の流れを解体し、それぞれの時代、様々な場所、個々の人物(それぞれの私)を切り離した上で、相互に交換可能な「項」とするような感覚は、冒頭の一文に既にはっきり現れている。「項」である限り、諸項を継起的時間、連続的空間の秩序によって関係づけることは可能である(否定はされない)としても、それは諸項の秩序の基底となるものではなく、考えられる無数の関係のあり方のうちの一バージョンにすぎなくなる。
●あらかじめ「現実」として継起的時間、連続的空間による秩序があり、それを語りによって変形する、というのではなく、様々な項を「語り」が関係づけることで、新たな時空連続体としての秩序(現実=フィクション)を立ち上げる。そのような前提が冒頭の一文からすでに示される。ここで求められているのは、すべての項をその内部に配置できる包括的パースペクティブの提示ではなく、その都度、ある項と別の項とを関係付け、変換、置換することを可能にする、ある関数的な操作だと言えるだろう。
●例えば、Aという項とBという項がある関係によって結びつき、ついで、そのBが別の関係によってCと結びつき、またCがDと結びつくという時、小説であればそれはA-B-C-Dという継起的に連なる文の流れとなる。これは言い換えれば、A-Bを成立させるパースペクティブ、B-Cを成立させるパースペクティブ、C-Dを成立させるパースペクティブという、三つのパースペクティブの非連続的な移行でもある。パースペクティブA-BとパースペクティブB-Cの間の非連続(空隙)は、「B」という共通する項の媒介によって結ばれる。パースペクティブA-BからパースペクティブB-Cへとボール「B」のパスが繋がった、と。
●とはいえ、このような継起的A-B-C-Dは、確かに先の展開を読めないスリリングな運動とはなるかもしれないが、一方で、たんにとりとめのない、とっちらかった印象しか人に与えないかもしれない。文の連なりがとっちらかった感じしか生まないとしたら、読む人はそこにある空隙を飛び越えることなく、たんに読むことをやめるだけかもしれない。
これまでの磯崎さんの小説では、文や語りに非常に力強い先へと進む推進力が宿されていることや、多くの欠落や飛躍や転換を含みながらも、物語内容や登場人物に最低限の統一性が持たされていたことなどによって、読者に先を読み続けさせるための、飛躍と統一性のぎりぎりのバランスが保たれていた。だが、今回の連作では、内容もとりとめなく、人物の同一性もかなりあやうくなっている。ここでは何が起きているのか。
●もう一度A-B-C-Dという流れを考えてみる。Aという項には(1,2,3,4)という要素が含まれ、Bには(2,4.5,8)という要素が含まれているとする。そして項AとBの関係(パースペクティブ)は、共通する(2.4)によって成立しているとする。つまり、AとBの関係は(2,4)という共通部分と(1,3)(5.8)という異なる部分という位置関係としてある。AくんとBくんはともに三年五組だが、Aくんは飼育係でBくんは保険係だ、みたいな。
次に、B-Cという関係がくる。例えば、Bくんの通う剣道教室の先生がCさんであるとする。そしてCは要素(3.7.8.9)を持つとする。AくんとCさんには接点はなく、共通部分もただ「3」のみであり、それはあるパースペクティブを成立させるには足りないとする。例えば、Cさんはずっと実家に住み、歳をとって一人暮らしを始めた後も実家の近くに住みつづけたが、Aくんも将来はそうなるだろう、というような(磯崎さんの小説においては過去と未来は別物ではなく、現在まで含めてすべて過去であるような感触がある、それはまた、過去もまた未来であるような感触とも言える)。この、予感のようなかすかな共通性は、ある潜在的な空気のようなものとして、非連続的なパースペクティブ間に、ミクロでかつ異次元を通じた通路を通す。この、空気のような、または粒子的な通路が、作品全体に不可視の連続的感覚を生じさせるのではないか。
●さらにいえば、A-B-Cまでの流れにおいては些細な細部の共振でしかなかった「3」のという粒子的共通性が、最後のDのところで「カフカ」が出現することで、遡行的に別の強力なパースペクティブが(いわば後ろから逆向きに)刺し貫くということもある。
それは、「3」のような共通性が、あらかじめ仕掛けられてあるのではなく、書くという行為を通じて、あるいは、自らがすでに書いたものを読むことを通じて、事後的、遡行的に発見されるということでもあるのではないか。「すでに書かれているもの」のなかから、新たな関係が「発見される」という時、それはすでにあったものなのか、それとも発見によって新たに生まれたものなのだろうか。
●ただ、この小説が、カフカに向かって(カフカという終点が予想されて)書かれたのか、それとも、結果としてカフカにたどり着いたのかは、結末があまりに見事であるために、どちらか分からない。ペンローズはこの宇宙(の未来)を、計算不可能であると同時に決定論的であると言っている(そして「意識」とは要するに計算不可能性のことなのだ、と)。この小説のラストは、まさにそういうものなのではないか。ラストがカフカであることはあらかじめ決まっていたのだが、作者はそのことを知らなかった、みたいな。
●継起的時間や連続的空間の秩序が絶対的ではない磯崎的小説の時空では、すぐ隣にいる他人と、とても遠くにいる他人、そして遠い未来や過去にいる他人の間に、本質的な違いはない。それらはそれぞれに独立した「項」であるから、距離は前もってあるのではなく、項と項とのその都度の関係性のみが他者との距離を決める。つまり、《私》と誰かとが、どのような関係性によって語りに(小説上に)あらわれるかに依っている。
項と項とは変換、置換が可能であり、様々な人物が《私》のこうであり得たかもしれない可能性として《私》に憑依して「私」として語りはじめる。異なる時代での「私」、異なるシチュエーションでの「私」、異なる身体性をもった「私」等々。それらは「ここ」にいる《私》とぴったり重なるわけではないが、響き合うさまざまな要素をもっている。そのような、響き合いつつ異なる無数の可能性としての「私」こそが、「ここ」にいる《私》の存在を支えている。そして《私》もまた、無数の「私」たちを支えるための一項として存在する。《私》は、私を見守る両親でもあり、私に見守られる娘でもあり、孤独な大柄の郵便配達者であり、城下の村のために自らの首を差し出した孤独な領主でもあり、しかしそれらの誰でもなく「ここ」にいる。
●昨日書いた、過保護とハードボイルド的孤独の共存のように、磯崎さんの小説には反転的なものの共存がしばしばみられる。反転的なものの共存は互いを相殺するのではなく、反転するものの共通性(一見対立するものに共通するパースペクティブ)を強調するように思われる。例えば、引用した冒頭で示される(六十年代半ば的な)悲観的未来像は、子供時代の《私》によってそのまま反転して語られる。
《僕が大人になる頃には水も空気も浄化されて公害病や伝染病は根絶されているだろう、癌の特効薬や人がぶつかっても絶対に死なない自動車だって完成しているに違いない、世界は一つの国家に統合され月への移住も始まる、月には無尽蔵の地下資源が埋まっているのだから、人類はもう石油なんかに頼らずともあらゆる動力の駆動源が永久に確保されたも同然なのだ……》
冒頭の引用で語られる絶望が現代のものではなく過去のものにすぎないように、この希望もまた現代の希望ではなく過去に希望である。しかし重要なのはこの時代の希望がすでに古くなってしまっているということではなく、人はいつの時代でも未来への希望と不安をもつのだという点だろう。そしてさらに、未来への希望が過去のものとして語られることで、磯崎的な、未来と過去との同質性が際だつ。あらゆる未来がすでに過去のようであり、また、あらゆる過去が未だ未来であるような感触。それがつまり、あらゆる時間が項として並立的に並べられている(その都度の「関係付け」に対して待機している)感触ということなのだ。
この小説は全体としてとても「昭和のにおい」が強いと思うのだが、それがけっして昭和ノスタルジーみたいになっていないのも、基本的に、現代も、昭和四十年前後も、源平合戦の時代も、それぞれ違うと同時にほとんど同じ、という時間の並立感覚が小作用しているからだと思う。それは、私も郵便配達者も領主も、それぞれ違う「私」であると同時に、同じ「私」の別の可能性として並立されているという感覚とパラレルなのだと思う。