●アンスティチュ・フランセで、エリー・デューリング、清水高志、柄沢祐輔による鼎談。一見、三人がそれぞれ自分の言いたいことを言い合っているみたいに見えて、実は様々なところで思考が共鳴しあっている感じ。エリーさんが、イメージを喚起するような話をし、柄沢さんが実作について具体的に話し、清水さんがより抽象度の高い話をした。以下、ざっくりとしたメモ。
エリーさんがまず軌道(軌道上)という概念を示す。軌道は、宇宙でもなく、空でもない。そこは無重力で等方向的があり、垂直性が成り立たない。地球が上から覆い被さり、その下を漂うという感覚も生じる。軌道上においては、地球の上にいるのか、下にいるのか分からない。(反転可能=あらゆる方向が相対的)。そこでは基底的なグラウンドは成り立っていない。
(グラウンドはどこでも成立する=地球の外に出てもそこが第二の地球になる、とするフッサール、グラウンドの消失=実在の危機を批判するハイデガー、アーレント、グラウンドを喪失=場所を失うことを積極的に評価するレヴィナス。)
基底的なグラウンド(絶対的座標)が失われることで運動が相対化される。互いに動いているもの同士の間で生じる運動は、運動のルーツがどこにあるのか分からなくなる。たとえば、ernie gehrの「side walk shuttle」。ビルが沈んでゆくようであり、空が下からせり上がってくるようであり、地面が上から降りてくるようである。視点の成立しないパースペクティブ。
https://www.youtube.com/watch?v=wWRq4SJGtS8
浮世絵におけるパースペクティブのない奥行きや、パースペクティブの反転。消失点のないパースペクティブ。あるいはネッカーキューブ。二つの異なる視点があらかじめ折り重なっている。これらは「軌道上で生じる」動体(運動の主体)なき運動であり、主体のない視点(物としての視点)を生み出す。
柄沢さんは、コーリン・ロウの「虚の透明性」に対し、「虚の不透明性」という概念を示す。近代建築の特徴は、視覚的には不透明でありながら、建築内部を歩くことで、最後にその構造が頭の中に立ち上がるような虚の(フェノメナルな)透明性にあるとロウは主張する。一望できない構造的な不透明性が、身体を伴ってすべてのシークエンスを巡った後で、最後に透明な構造としてたちあがる。それに対し、現代の建築は、一目でだいたいの構造は把握できるのだけど、個々の場所にいくと、全体としての構造に還元されない、それぞれの場の固有性が立ち上がって立ち去り難くなるという特徴をもち、それを虚の不透明性とする。概念的一望性が最初に与えられ、その後に、ローカルな身体的個別(特殊)性が発生する。
(虚の不透明性は、二乗された透明性とも言い換えられると、エリーさん。)
概念的な一望性とは、いわばアルゴリズムであり、無限の可能性にひらかれたネットワークそのものの現れである。しかしそれと同時に、このわたしの身体を通じたローカルな具体的表情(経験)が、その場所ごとにその都度あらわれる。この二重性こそが重要である、と。この二重性によって、様々な潜在的な視点が互いに反映しあうかのような、アウト・オブ・ボディ・エクスペリエンスが、柄沢さんが設計した「S-house」において可能になる。
そして柄沢さんは、この概念的一望性と身体的個別性の二重性による多数の視点の相互反映を、ハーマンの、実在的オブジェクトと感覚的オブジェクトが代替因果によって関係するという図式と重ね、エリーとさんによる、プロジェクトとオブジェクトの二重性をもつプロトタイプとしての作品という考えと重ねる。
清水さんは、エリーさんの言う、互いに運動する物の間に発生する相対的運動に関しても、そこには軸としての第三項が必要であるという。あるいは、二つの独立したパースペクティブの重なりがあるとしても(たとえばネッカーキューブの凹と凸)、それらを反転させる軸としての第三項を考える必要がある、と。
ここでハーマンについて言及される。たとえば、人が木を見ているとする。この時、人は木を完全に把握することは決してできない(木は人から脱去する部分をもつ)。逆に、木が人を見ているというパースペクティブもあり得て、しかしここでも、人は木から脱去する部分をもつ。この二項だけで考えると相関主義になる。ここで、人が木を見て、木が人を見るという二つのパースペクティブの重なり---あるいは奪い合い---は、三つ目の項となる第三者のパースペクティブのなかでこそ可能になる。ハーマンは二つのパースペクティブの重なりを「第三の者があるための機会原因」と言う。しかし、この第三者は神ではないし、メタレベルに立つ者でもない。この第三者もまた、人と木の関係に対して脱去する。
清水さんは、この三者の関係について、パースの記号学から、対象、記号内容、解釈項のような関係であるとする。つまり、対象と記号内容とは解釈項という第三項によって関係づけられるが、ここで解釈項であったものも、他の解釈項に対しては対象になったり記号内容になったりする。この三つの項は、その都度その都度で位置を換えるという意味ではフラットである。このようにすれば、階層構造をつくらない、フラットでかつ三項である関係を考えられる。
(柄沢さんの言う、概念的一望性と身体的個別性とアウト・オブ・ボディ・エクスペリエンスの三項も---つまり、無限のネットワークに触れていることと、それがその都度個別の身体へと着地することと、多数の異なる視点が互いを反映し合うこと、という三つの項も---このような三項関係として考えられるのではないか、と思った。)
●柄沢さんの言うような現代建築の特徴は、ドゥボールの言うような「漂流」と何か関係があると思うか、という質問。柄沢さんは、漂流はあくまで心理的、主観的経験だが、「S-house」においては、たとえばスモールワールドネットワークのような数学的な根拠に基づいて、客観的装置としてそれが実装されているとする。エリーさんは、それは空間という幻想の解体につながるかもしれないと言う。
家というのは、親密さ、やすらぎ、休息の場であると思うのだが、「S-house」においてそれは見失われていないか、という質問。柄沢さんは、「S-house」は一方でアルゴリズムを駆使してつくられているが、もう一方でスケールやプロポーションについて厳密に吟味されていて、身体的に心地よいように作られている。そこで人は、その都度見出されるローカルな身体を、その都度創出される故郷であるように感じるはずだ、と。
そこに住んでいる清水さんは、確かに親密さのような感覚はある、ただ、「S-house」は暑さと寒さに弱い、と。