●三国美千子「いかれころ」(「新潮」11月号)を読んでいて思い出したのは、中上健次の小説『地の果て、至上の時』(1983年)や、柳町光男の『さらば愛しき大地』(1982年)、根岸吉太郎の『遠雷』(1981年)といった映画だった。「いかれころ」は大阪府羽曳野市、「地の果て…」は和歌山県新宮市、「さらば…」は茨城県鹿嶋市、「遠雷」は栃木県宇都宮市という土地が描かれ、八十年代初頭の「地方(都市近郊の農村)」を舞台にしている。その頃の日本では、それ以前にあった「都市と農村」というような二項対立的な構図が崩れて、バブルの予兆が農村にも押し寄せ、「(「都市」との対立で語られるような)農村」が崩壊し、たんに地方とか郊外とか呼ばれるものに変化していったように思う。
上記の「いかれころ」以外の作品は、それらがつくられた時代の「現代」を反映していて、「崩壊しつつある」ということの方にウェイトが置かれているが、「いかれころ」では崩壊よりも、「崩壊寸前で持続している」という感じが強く出ている(そのような意味で、『千年の愉楽』と「地の果て…」の中間くらいの位置にあるとも言える)。
とはいえ、四歳の娘が一族の人間関係を冷静かつ辛辣なまなざしで記述しているという小説の形式からして(小説の視点は娘の未来からの視点でもある)、そこに書かれている土地の環境は(その小説が書かれ、読まれている「現在」では)すでに崩壊しており、書かれている事柄もまた、崩壊しつつあるなかで起こったことだという点が強く匂わされることになる。出来事が進行している「ここ」においては、どうしようもなく揺るがしがたい堅さで存在しているようにみえる権力関係も、未来からの視点からは、それが風前の灯火であることが意識される。よって、小説を読む者は、それが厭うべきものであると同時に、「書かれる」ことにより保存されるべきであるような、ある「土地」で生きられたリアルな過去であり、貴重な事柄でもあるように感じられもする。
とにかく、「いかれころ」には八十年代初頭の日本の空気があり、そして、今にも崩壊しそうなものがぎりぎりで保たれており、しかしだからこそ、どうしようもなく硬直して存在してしまっているという、なまなましい感触があると思う。
(河内という土地についてはなにも知らないが。)