2022/06/21

●ふと思い立って、本棚にさしてある『万延元年のフットボール』(大江健三郎)を手に取って読みだした。ふだん本を読むときは、何色ものボールペンや蛍光マーカーなどで線を引いたり書き込みをしたりするのだが(集中力がなく散漫なので、そういう動作をかませないと、すぐ別のことに気が逸れてしまう)、そうすることもなく、本をひらいてすぐに、すーっと入り込んで、そのままとりあえず六章まで読み進んだ。

(というのは厳密には嘘で、いつか「万延元年…」をちゃんと読み返そうと思って、本棚の割と目立つ場所に移動してあった。本は前後二列に並んでいるので、後ろにある本は見えない。それを前の方に意識的に出してあった。とはいえ、それをしたのがいつだったかわからないくらい前ではある。「いつか」が来るまで割と時間がかかった。その「いつか」が不意に来たのは本当のことだ。)

1967年(ぼくが生まれた年だ)、作家が32歳の時に出版されたこの小説は、この時点ですっかり大江健三郎だ。それは、晩年の代表作と言える『水死』と、まったく地続きにつながっていて、後年の大江の特徴や要素というべきもののほとんどがここに出そろっている、という意味でだ。ある意味、ここで既に完成してしまっている。たとえば、

《僕は妻が僕の言葉に反撥する仕方をつうじて、彼女の内部に起こっている地崩れに逆らおうとする妻自身の意思が、まだ全的にはアルコールの破壊力に溶かされてしまっていないことを感じた。》

32歳にして、もう(何重にも屈折する)「この書き方」なんだな、と。それは初期の、早熟な、瑞々しく才気走った若手作家のものとはまったく別物になっている。

(自殺する友人は、主人公---蜜三郎---から分離していく自分自身であり、ここに既に『水死』のコギーがいる、と思った。)

そして、「万延元年…」を読みながら頭に浮かんでくるのは、中上健次という名だ。二人の小説が似ているということではないが、「小説」という器によって何をつかみ取ろうとしていたか、何を救い上げようとしているのか、という点で共通するところが大きいと感じる。

なんというのか、自分の「血縁」を描くことがそのまま、一方では共同的な神話的、説話的想像力に直接アクセスし(いわば、対幻想と共同幻想との関係が直接的で近く、同時に、「個人幻想が共同幻想に逆立する」を地でいく位置にある)、しかしもう一方ではその同じ「血縁」が、(説話的想像力を批判するように)現実としての日本近現代史へも直接的につながっているという、多層的な(複雑で矛盾を孕んだ)位置にある。また、言葉が紡がれる位置が、被抑圧者であると同時に抑圧者でもあるという微妙な位置にあり、引き裂かれた二重性をもっている。この多重化された相容れなさの諸要素が、決して溶け合うことなく、交わらないまま互いに批判的関係を保つことで激しく振動し、沸騰する。

日本の小説で、『万延元年のフットボール』、『懐かしい年への手紙』、『水死』と比較すべきものがあるとすれば、それはやはり、『岬』、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』(+『熊野集』、『千年の愉楽』)になるのではないか。中上健次には、大江健三郎に対して中上健次であった(つまり、大江がああやるのなら、オレはこうやる、という風に)という側面があるのではないか。「岬」という小説が、『枯木灘』へと展開し、『地の果て 至上の時』へ展開するのは、『万延元年のフットボール』という小説があったから、ということではないか(検証のない思い付きです…)。

(あるいは、『枯木灘』の完成度に満足せず、その後に『地の果て 至上の時』が書かれる必要があったのは、これではまだ「万延元年…」に届いていない、という意識があったのではないか。)

●そういう流れとは別のところに、いわば「バートルビーの系譜」というのがあるのだが。