2022/06/24

●『万延元年のフットボール』(大江健三郎)、七章から最後まで読んだ。今回は、メモをとるでもなく、線を引くでもなく、ただ、すうーっと読んだだけだから、具体的な引用や細部の指摘はできず、ふわっとした感想になってしまうのだが。

改めて、ここには、これ以降の大江健三郎のほぼすべてが、もうあると思った。小説の最後で、主人公の蜜三郎とその妻は、四国のこの村に二度と戻ってくることはないだろうと思う。しかし、小説家大江健三郎は、この後何度も、この土地に戻ってくる(四国の谷にある、生まれた村を題材とする)。早熟な作家の呪いのようなもので、三十代のはじめにこの小説を書いてしまった作家は、この後、自分が書いた小説を超えるために苦労することになったのではないか。そのために、いろいろ勉強したり、様々な形式や方法にトライしたりする。そのようにして、ここにあるもの(主題や要素)が、何度も語り直されていく。そのような試みの結果として、この作家に独特な、疑似的私小説という形式に至ったのではないかと感じた。

この小説は、ネガティブなことを積み重ねるようにして展開する。冒頭の、友人の不意の自殺と、子どもが障がいをもって生まれたことからくる、夫婦の精神的瓦解からはじまり、四国の村に起きた百年前の一揆が、民衆からの蜂起などではなく仕組まれたものであり、その指導者こそが最大の裏切り者であったこと、百年後に反復されるスーパーマーケットからの略奪もまた、その底にあるのは土地の人々の「差別」と「恥」の感情であること。百年前の一揆の指導者を、裏切り者=悪として自覚的に反復し、悪としてあることで自己犠牲的な身代わりを(S兄の反復として)引き受けようとした(蜜三郎の弟の)鷹四が、その役割を果たすことなく犬死のように自殺してしまうこと。そして、蜜三郎とその妻の関係が、もはや修復不可能なまでに破綻してしまっていること。これらのネガティブな要素は、説話、神話的な、あるいは祝祭的な「救い(解決)」を批判し、拒否する、分析的で現実的な知の効果として発動する(説話的、儀式的、祝祭的な熱と、分析的な認識とが、絶えず拮抗しつつ、分析的認識は常に出来事のネガティブな側面を指摘する)。

しかしそれらネガティブな要素が、最後の章(13 再審)において、読み直され、検討し直されることで、反転していき、最後は、なんとか「希望」の萌芽のようなものが認められるところにまでたどり着いて、小説は閉じられる。そしてこの、ネガティブな要素の反転が起こるきっかけが、「隠された地下室」の発見なのだった。ここへきて小説にいきなりミステリ的な感触が現れる。この構成はほとんどミステリであり、最終章で伏線が回収されるように、今までの出来事が(ミステリのようにあくまで理知的に)読み替えられていく。最後の章を読んでいて、「万延元年の…」って、新本格だったのか、とさえ思ってしまった。

この小説に欠点があるとすれば、この、あまりにもきっちりとし過ぎた「小説としての構成」にあるのではないか、と思った。つまり、この小説のラストに見出される「希望」は、小説としての構成の見事さによって(あるいは、小説としてきれいに終わるために)導き出された希望であって、これ本当に「希望」なの?、と思ってしまう。おそらくそれは作家も感じていると思われ、だからこそ、もう二度と戻ってはこないはずだった四国の村に、その後、何度も立ち戻ることになるのではないか。異なる方法やアプローチを用いて、この土地に何度も戻ってくることで、新たな問題がその都度起こり、そんなに「きれい」には終われないよ(分析的で整合的な読解よりも、きれいに終われないということそのものが、リアリティであり、説話的・祝祭的盛り上がりに対する批評でもある)、ということが示される、のではないか。というか、「きれいな終わり」もまた、「別の問題」のはじまりであるのだ。

あるいは、「きれいに終われない」ということが「生き残る」ということなのかもしれない。三十代はじめでこの小説を書いた作家は、この後、五十年以上にわたって「書き続ける」ことになる。それにより、「きれいな終わり方」も何度も検討し直されることから逃れられない。