2019-03-05

●『二百年の子供』では、大江健三郎の小説でいつも「ひかり」とか「あかり」と名付けられている長男が「真木」と名付けられており、いつも「真木」と名付けられている長女が「あかり」と名付けられているので、読んでいてどちらがどちらなのかを何度も混乱してしまう。

(そしてこの混乱が、この小説で一番面白いかもしれない。)

大江健三郎の小説において「未来(「わたし」が死んだ後の「この世界」)」の感触がリアルであるのは、長男の存在があるからではないか。自立することのできない(生存するために常に他者の援助を必要とする)長男が存在することによって、作家にとって「わたしの死後」は、長男が、(長男を援助する)わたしがいなくなった世界で生きることになるということを意味する。だから、「わたしの死」が問題となる時に、自動的に「わたしの死後のこの世界」の問題が必然的にくっついてくることになる。「わたしの死」の問題と「わたしの死後のこの世界」の問題が、長男を媒介とすることで絡み合って切り離せなくなる。わたしが自分の死を意識する時には必ず、わたしのいなくなった後も持続しているこの世界が(そのような世界に存在する長男を媒介として)意識されることになる。

(逆に言えば、たとえば長男と長女との間のパートナーシップ---それは「わたし」の死後に長男の生を支えることになるはずの重要な関係だ---が描かれる時に、そこに「わたしの死」の気配が混じり込むということでもある。つまり、長男と長女のパートナーシップを書いている「わたし」の視線には幾分か死の気配があり、それは「死後からの視線」を感じさせる。長男と長女との関係を見る時、そこに「わたし」は「わたしの死後(わたしのいなくなったこの世界)」のありようを見てもいる。)

たとえ、実際に描かれる未来像にあまりリアリティが感じられないとしても、そのようなことから「未来(わたしがいなくなった後のこの世界)」の存在の感触が小説のなかに織り込まれるのではないか。それを読むことを通じて読者もまた、自分の死後としての「未来」を意識することになる。

●おお、すごい。『霊的ボリシェヴィキ』BD&DVD化決定!(キングレコード映像制作部)。何度も観返したい。

https://twitter.com/i/web/status/1101771807688806400

霊的ボリシェヴィキ』の感想。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180222