●『リビジョン』(法条遥)。うーん。細かなツッコミはいろいろあるけど、根本的な疑問が一つあって、ぼくには、ヤスヒコと保彦が同一人物であるという根拠が分からなかったのだけど、どこか見落としているのだろうか。
●この手のタイムリープ物(タイムリープではないか?)でまず問題になるのが、前提として時間線(「シュタゲ」で言う世界線)の複数性(あるいはパラレルワールドやマルチバース)を認めるのかどうかということだ。そもそも複数の時間線を認めるのならば、過去と未来とに矛盾があっても時間線の移動があるだけなのでタイムパラドクスは生じない。あるいはもっと過激に、因果律そのものを認めなければ、パラドクスというものが最初から成り立たなくなる。しかし、『リライト』や『リビジョン』で「運命」というものが絶対的な力で働くのは時間線があくまで単一であり、かつそこに因果律の厳密な作動があるからだ。とはいえ、もし時間線が完全に単一であれば、そもそも過去のわたしと現在のわたし、あるいは現在のわたしと未来のわたしとの間に食い違いや抗争が起きることはないはずだ。邦彦と結婚している現在の霞(主人公)が、邦彦と結婚したことのない十年後の自分と言い争うという出来事それ自体が起きようもないことになる。
この小説では、世界はあくまで一つであり、矛盾を許さない因果律によって律せられているのだけど、ただ、「ビジョン」という場においてだけは、あり得たかもしれない複数の可能性---別である可能性---との共存が許され、世界の複数性が開かれている。しかしビジョンが閉じられると、ビジョンの場での可能性(複数のわたし)間の交渉や抗争の結果を反映する形で、世界はまた再び無矛盾な「一つ」の体系へと閉じられることになる(その時、世界は、その前の世界の記憶をすべて忘れて---過去から未来すべてが---構築し直される、はず)。つまり、世界は(時間線は)一つなのだが、それを律する因果律が時々緩み、その緩みを回収する形で、再度ハードで無矛盾な単一の体系へと世界が再構築される、という世界観であると考えなければこの小説世界は前提から成り立たなくなる。
主人公の霞は、手鏡を通じて未来のビジョンを見ることが出来る。だがそれだけでなく、見られた未来の霞も、自分を見ている過去の霞を見ることが出来る。このようなビジョンの双方向性がこの小説の新しさの一つだろう。つまりビジョンとはたんなる未来予知ではなく、いわば自分会議の場となる。しかし、世界が一つで、それが厳密な因果律に従っているとすればそれは決定論的な世界であり、つまり、過去も現在も未来もすべて既に決まっていることになる。すべて決まっているということは既に「すべてある」と言い換えることもできる。時間のすべては既にあり、「現在」という客観的な位置などどこにもなくて、十年後の霞にとっては十後が現在であり、十年前の霞にとっては十年前が現在である。そもそもこの小説の「現在」は九十二年だ。現在などどこにも実体はなく、それは「ここ」という相対的な視点の位置でしかない。
世界(時間線)が一つであり、その世界が厳密に因果律に従っているとすれば、そのすべては(遥かな過去から遥かな未来まで完全に)決まっているのだから「既にある」のと同じで、手鏡が、その既にあるいくつかの点と点とを映し合うだけであれば、そこにゆらぎはない(そもそも「自分会議」など起こらない)。そこにゆらぎをもたらすものがあるとすれば、それはそのような世界の「外」から来たものでなければならなくなる。しかし、世界が「一つ」であるということの意味は、その外はないということだ。故に、世界がゆらぐとしたら、それは「因果律」それ自体が「緩む」のだと考えるしかないのではないか。
因果律そのものが緩むことで、決定論的世界がゆらぎ、「新たなもの」の到来が可能であるようになる世界、という世界観。つまり、世界(1)→因果律の緩み(ゆらぎ)→再構築された世界(2)という運動を「この世界」が繰り返し行っているのだとすれば、世界(2)においては、過去から未来、はじまりからおわりにかけて、すべてが一から書き換えられることになる。つまり、世界(2)には、世界(1)の痕跡はまったく何も残っていない。実際には、世界(2)は世界(1)にかなり似ているものであろう。しかし、それは「似ている」のであって、痕跡(インデックス)的な意味での連続性はゼロということになる。つまりそれは、世界(2)からでは世界(1)のあり様を遡行的に探ることが原理的に不可能になってしまう、ということだ。世界は非連続であり、世界(1)は完璧に消え去ることになる。
●こういう世界観は、どこかマラブーやメイヤスーと共通するものがあるのではないかという気がする。