●これは誰でも考えることだとは思うけど、『ガッチャマンクラウズ』における「ベルク・カッツェ」と「はじめ(+累)」の関係を、『攻殻機動隊S.A.C 2nd GIG』における「ゴーダ」と「クゼ」の関係と比較して考えてみると、いろいろ見えるものがあるのではないかと思う。
それだけでなく、「クラウズ」と神山版「攻殻」とはほかにもいろいろと比較されるべき事柄の多い作品だと思う。これは、一方を持ち上げるために他方をおとしめるというようなことではなく、二つの比較によって、「攻殻」の示したビジョンのどこがすごくて、しかしなぜ「攻殻」以降の神山健二が停滞(あるいは後退)してしまっているのかということ、そして、「クラウズ」のビジョンのどこが新しくて、どこに弱いところがあるのかということが、よく見えるようになるのではないかという期待があるということだ。
(例えば、「クラウズ」をほかのヒーロー物と比較してみても、せいぜい「ヒーロー物」というジャンルの更新のような退屈なことしか出てこないと思う。)
(「クラウズ」と「攻殻」、あるいは「東のエデン」との大きな違いは具体的---表面的にはゲーミフィケーションという概念の有無だと言えると思うけど、それはたんに目新しい概念を導入したというだけのことではなくて、「一/多」関係の掴み方が、あるいは「表象-代表制」に対する立ち位置が、微妙に、ではあるけど、決定的に違うということなのだと思う。)
(多が、多としてのひとつの塊---というか雲のような流動体---であり、しかしそれぞれは雑多な「一」の寄せ集めでもあるということを、「同時に捉える」ことを想像できるかどうか、ということ。それは、少数精鋭としてしか実現できないスタンド・アローン・コンプレックスとは明確に違う。そして、それが実現されるには、障壁のないネットワークと、コンピュータの絶大な計算能力が存在するという環境が必要だということ。そのようなイメージを示すフィクション。)
(ぼくはここで「攻殻」は「クラウズ」によって乗り越えられたみたいなことを言いたいのではない。むしろ相補的であると言える。例えば「クラウズ」は決してゲーミフィケーション万歳と主張するのではなく、安定した既成の制度の重要性が意識されている。スタンド・アローン・コンプレックスのようなエリート主義が否定されているわけでもない。とはいえ「クラウズ」では、既成の制度の維持や更新にまつわる面倒な政治性のようなものはきれいさっぱりスルーされている。ネゴシエーションを担当するアラマキのような、世知に長け酸いも甘いも噛み分けた人物は出てこない。)
●情報技術の発達が、社会を、あるいはそれだけでなく人間のありようそのものを、根本から大きく変えてしまうのだとして、ではその変化を具体的に(想像可能な感触として)どのようなものとしてイメージすればよいのか、ということを、この二つの作品はフィクションという形で示していると思う。例えば、インターネットという巨大なネットワークにおいて「なにが起こっているのか」ということは、おそらく人間による、人間的な思考やイメージによっては捉えることができない(例えば「ツイッタ―」を「物語」としてどう表象すればいいのか?)。しかしだからといって、それを従来通りの表象や物語の形式に無理やり押し込めて捉えるだけで満足していたのでは、「実際に起こっていること」と「人間によって捉えられたもの」との乖離がどんどん大きくなっていって、我々は、自分にはまったく理解も接触もできない不気味な世界のただなかに放り出されて生きることになってしまう。イメージの不在は不安を生み、様々な誤解や思いこみを先鋭化させ、攻撃性を発動させ、その間の摩擦や軋轢をどんどん大きくしてしまいかねない。
そんな時に、現在ある表象や物語の形式とは異なる形で、かつ多くの人にとって理解可能であるイメージを、これから(今)起こりつつあることの有用な近似値として、フィクションという形で提示できれば、我々は現状(自分がおかれている世界)を多少なりとも理解しやすくなって安心できるだろうし、それへの批判や反発も的外れなものではなくなって、建設的になるかもしれない。
「新しさ」という概念自体を新しく書き換えなければ、「新しいもの」の「新しさ」を適切に表象することはできない。古臭い意味での「新しさ」をまとった作品ならいくらでもあるけど。
ぼくがイメージする「社会派のフィクション」とはそういうもので(「社会の矛盾を告発、批判する」というようなものでも「ある種の理念やイデオロギーを示す」ものでもなくて、ある「有用な世界像」を提出するもので)、その意味で「クラウズ」や「攻殻」はすぐれた社会派のフィクションなのだと思う。
●それは、ぼくが考える(ぼく自身が目指している)芸術や作品としてのフィクションとは少し違う方向のものなのだけど。