●『ガッチャマンクラウズ インサイト』、第11話。今までずっと抑制してきたアクション・バトルのシーンを、立川駅周辺の立地を最大限に生かしつつ、溜めた分を一挙に放出するかのように、見事に展開しているのだが、しかし、観ている者としては「待ってました」とはまったくならない、全然爽快ではないような、気がかりなシチュエーションを仕掛けた上で、それが行われる。挑発的というか、観る者を気持ちよくさせることを拒否している感じ。ガッチャマンは悪とは戦わず、「悪(敵)を倒せば正義が訪れる」という誤った考えと戦う。
おそらく、はじめがベルク・カッツェの能力を借りてゲルサドラに変身して、仲間に自分を攻撃させたということなのだろう。物語の展開の意外性という点からみれば、確かに思いもよらなかった凄い展開ではある。カッツェと一体化したことがここで効いてくるのかという伏線的な面からも。しかし、作品の主題というか、この作品が今まで何をやってきたのかという点からみると、この時点では判断を保留するしかない。もし、はじめによる、(「サル」たちを目覚めさせるための)英雄的な自己犠牲というような形で物語を納めるのだとしたら、一期からずっと積み上げてきたこの作品の「思考」を台無しにすることになってしまいかねない。確かに、はじめは、一期の当初から並外れた賢者であり超人であった。しかしそのような超人もまた、多の中の一人でしかないというのが、この物語の画期的なところなのではなかっただろうか。
まあ、いくら何でもそんなに単純な締めくくりになるとは思えないので、あともう一つか二つはひねりがあるのだろう。だから、今の時点では何も言えないので、保留。
●「インサイト」の世界には、外国が存在しないし、議会も政党も霞ヶ関も裁判所も存在しない。「クラウズ」ではそれでも、立川市の行政機構があり、消防、警察、自衛隊という組織が意識されていた(とはいえ「外国のない世界」の自衛隊は、消防や警察と何も変わらない)が、「インサイト」ではスガヤマ(元)首相というおっちゃんが一人いるだけだ。しかもスガヤマは無色でイデオロギーがない。さらに言えば、朝日と読売みたいな、メディアにおけるイデオロギーの対立もなく、国民全員が「ミリオネ屋」だけを観ているかのようだ。つまり、現実における政治的な抗争の反映はここにはまったく何もない。「(神山版)攻殻」にあったような、現実世界の厚みと政治的緊張を持ち込むような要素はまったくなく、徹底して抽象的で書き割り的だ。
(だから、ゆる爺がいきなり語り出す「戦争」にもリアリティはない。)
しかしだからこそ、「強い個」によって代表されるのではない、あくまで多としてある「多」に、物語としての表象を与えることが可能になっていると思う。この物語で問題になっているのは、「空気に流されるサルではなく、一人一人が自分の頭でちゃんと考える人になれ」という個に向けたメッセージというよりも、一人一人を「サル」として考えるのではないような「多」の捉え方はいかにして可能か、というところにあると思う。
(たとえば、理詰夢がゴーダに対応し、ルイがクゼに、ガッチャマンが公安九課に、そしてゲルサドラがカヤブキ総理に対応すると考えると、「攻殻」の「個別の11人」と「インサイト」との、共通点と相違点がよく見えてくると思う。「攻殻」ではあくまで、クゼやゴーダという卓越した強い個――多を代表しえる――-が、難民たちや国民を導こうとする話になっているが、「クラウズ」「インサイト」はそこが少し違う。)
理詰夢は、この物語ではテロリストだが、実際にはとても優秀な官僚のような存在だろう。彼は、危険なクラウズを放棄させるように人々を誘導し、また、圧倒的に支持されていたゲルサドラを「敵」とするような空気の相転移を実現した。彼はミリオのような無責任な扇動家ではないし、ゲルサドラのように素朴に「一つになりたい」と願うのでもなく、大きな視野とヴィジョンをもって理性的に人々を誘導する平和主義者だ(もし彼が「空気」の相転移に成功しなければ、世界はどんどん閉塞してゆき、ゲルサドラは疲弊し、ガッチャマンたちにも次の打つ手はなかっただろう)。彼のようなエリート官僚が的確に操作すれば、人々はサルのままでも、充分に幸せに、そして平和に暮らすことができるだろう。ゲルサドラ一人という最小の犠牲によって。しかしその時、理詰夢は人々をサルとして軽蔑したままで生きなければならなくなる。強い個に対する多(多のなかのそれぞれの一)は、あくまで劣ったもの、制御され誘導され動員されるものとされるしかない。
攻殻」のゴーダは、自らのプロデュースの通りに人々を動かし得ると考え、そして革命家としてのクゼの苦悩もまた、群れとしての人は「常に低きに流れる」ということだった。クゼはカリスマとして、巨大なハブとなることで、難民たちを導こうとしていた。だがそれでは、一方に愚かなサルたちがいて、他方に少数の賢い者たちがいるという世界像から抜けられない。
しかしルイはそこが少し違う。ルイは自らがカリスマとして多を導くのではなく、多のなかにある多様性を調整し、そこから新たなものが創発されるような「仕組み」を実現しようとした(たとえば、会議の議長になるのではなく、効率の良い会議の「方法」を考えるようなものだろう)。それは、ガッチャマンや公安九課のような少数精鋭ならば成り立つ。しかし、もっと捉えどころのない「多」でも、それが実現可能であると信じ、そのためのプラットフォームの創造を探っている。個としての強さではなく、多の可能性を見出そうとする。そしてそれを可能にするために必要な条件が、彼のパートナーである人工知能Xであり、人々に行き渡った情報通信端末だろう(「攻殻」における電脳化された人々のネットワークのかわりに、スマホがある)。
だから、敵のいない「インサイト」の世界であえて敵を指定するとすれば、それは「空気」ではなく「理詰夢」だろう。彼は、「多」は優秀な個によって制御されるべきもので、可能性ではないと考えているから。しかしやはり彼は敵ではない。理詰夢はルイの持っていないもの(必然的に生じる「炎上」への対処法、多の暴走を抑制する術)をもっている。つまり、ルイの革命のためには理詰夢の存在は不可欠になる。「クラウズ」で、はじめとカッツェが一体化したように、ルイと理詰夢の協働が必要となるはずだと思う。
だから、何かしらの形で「多の可能性へのヴィジョン」が示されなければ、この作品は終われないと思う。はじめという「超人(超強い個)」の自己犠牲で終わるわけにはいかない。
(「多」による協働ということを考える多くの物語は、それをユートピアとして描くのであれディストピアとして描くのであれ、多が「一つになる」ことを指向しがちだ。「攻殻」のクゼもネットワークという上位審級での融合を考えたし、『ハーモニー』もそうだ。そしてそれに対する批判は「個」を強調する。しかしここで問題になっているのは、「一人で孤独に考える」でも「みんなで一つになる」でもない、多様な差異そのものが協働するというヴィジョンだ。「私が考える」でも「みんなで考える」でもなく個々の間の「差異が考える」という可能性。個でも群れでもない、その間(段差)が考える。それを可能にするためのプラットフォームへの思考。「ガッチャマンクラウズ」の新しさは、決して十分な形とは言えないとしても、ともかく、物語としてそのようなヴィジョンを示したところにあると思う。)