アメリカの人類学者が日本のアニメの製作現場をフィールドワークして書いたというイアン・コンドリー『アニメの魂』(二章まで読んだ限りではフィールドワークとしての掘り下げはあまり深くない印象だけどまだ序盤なのでこれ以降に期待)に、アニメの関連商品の市場規模はアニメ作品そのものの十倍以上なのだが、最近では関連商品の成功例があまりないと書かれていた。関連グッズのようなものを考えればそれも当然で、かつてはロボットアニメはロボット玩具を売るためのものだとか言われたけど、最近のアニメは三か月か半年しかつづかないものがほとんどで、キャラクターが浸透する前に終わってしまうし、しかも深夜の遅い時間に放送されているのでほぼマニアしか観ない。
ただそのかわり、ある程度成功した作品が、ラノベ、マンガ、ゲーム、実写ドラマなど、(二次創作も含めた)他のジャンルの「作品」へと、同じキャラクター、同じ世界観が、つまり「同じタイトル(ブランド)の作品」が横断してゆくという展開になっているようにみえる。成功した作品=ブランド(キャラ・世界観)の多ジャンル間での共有。それはニッチからマスへの展開ではなく、あくまでニッチからニッチへの展開と言える。
(多数の人々の技術や組織の協働によってつくられるという意味では、アニメもハリウッド映画も変わらないが、ハリウッド映画には「ものすごくたくさんの人に観られなければならない」という強い制約があるのに対し、今のところアニメは、「多くの人の協働」と「多様なニッチの市場への指向」によって面白いものであり得ていると思う。)
イアン・コンドリーは、アニメが「物語」を中心につくられるのではなく、まず、「キャラクター」とその背景をなす「世界観」がつくられて、それが根本にあることが多様な展開を可能にしていると書いている。しかし、そうであるのなら、なにもアニメというメディアを中心として考える必要はなくなる。アニメ、ラノベ、マンガ、ゲーム、実写ドラマのどこから出発しても、キャラクターと世界観を中心としてつくられるコンテンツは、他のメディアへと横断、展開がしやすくなるということになる。重要なのはメディアでもメッセージ(思想や物語)でもなく、キャラクターと世界観であり、その展開可能性と増殖力、浸透力にある、と。
だが、そうは言っても、同じキャラクター、同じ世界観、同じような傾向をもつ物語が展開されるとしても、それを最大限に魅力的にする、それぞれのメディアに固有の異なるやり方というものは当然あるだろう。なにしろ、ニッチからニッチへの展開である以上、そのコンテンツを受け取る者の多くは、それぞれのメディアのうるさ型のマニアであるはずなのだから。人気のラノベをアニメにしてみました、というだけでは誰も納得しない。キャラクターや世界観は、その都度、ある特定のメディアにしっかりと受肉される必要がある。
メディアを越えて広がる力と、そのメディアならではの魅力へと受肉させる力。つまり、キャラクター(+世界観)の、トランスメディウム性とメディウムスペシフィック性の両者を共に考える必要がある。当然と言えば当然のことだけど。
さらに言えば、アニメというメディアが既にトランスメディウム的なあり方をしている。キャラクターのデザインをする人、メカのデザインをする人、物語の展開とその配分を考える人、絵コンテによって全体の設計図を示す人、絵を描いて動かす人、背景で世界をつくる人、声の演技をする人、音響の設計をする人など、それぞれの分野で独自の進化や文脈があり、高度に専門化し、細分化された技術が必要とされる。故に、それを交わらせ、束ねるトランスメディウム的なジャンル(業界)が社会的(産業的)に成り立っている必要があろう。つまり、アニメというトランスメディウムは、個々の分野ではメディウムスペシフィック的であるものの社会的集積であろう。ファンもまた、その物語や主題について語る人もいれば、マニアックに作画の精度にこだわる人もいるし、ひたすら声優を愛する人もいるし、キャラに萌えている人もいる。故に、ファンの活動も多様となる(二次創作のマンガを描く人もいれば、コスプレをする人もいる)。逆に言えば、すべての部分(側面)に完璧に精通し、見通せている特権的な人(視点)は考えにくい。製作者の側にいるプロですらも。
誰もが、何かを見ていると同時に、別の何かを見逃している。各々のそのような差異を、アニメというトランスメディウムが串刺しているとも言える。
そうだからこそ、作者が何かを表現するのではなく、「作品が考える」という状況がより明確になるのではないか。考えるのは作品、あるいはジャンルであり、製作者たち(そしてファンたち)は、作品が思考するための環境であるという風に。
(勿論これは、一人一人の製作者たちが充分に考えることによって、はじめて成立することだけど。)