●土屋誠一さんが、昨日の日記についてツイッタ―でコメントして下さいました。ツイッタ―での個別のツイ―トのURLが分からないので、発言を直接引用させていただきます。
《古谷さん、その3区分は面白いと思いますけど、対応するのが「近代美術」「現代美術」「深夜アニメ」じゃ、ちょっと単純すぎやしませんか? でもこれ、展開可能な区分な気がする。》
(https://twitter.com/seiichitsuchiya)
たしかに、メディウムスペシフィック、ポストメディウム、トランスメディウムに対応するものを「近代絵画」「現代美術」「深夜アニメ」と限定してしまう(あるいは代表例としてしまう)のは、単純すぎるというか、強引すぎるように思われます。昨日の日記の書き方では「現代美術」と言われているものが具体的にどんなものを指すのかもまったく分からないですし。
ぼくの考えの順番としては、まず、具体的な関心の対象として、「近代絵画(例えばセザンヌマティス)」「現代美術(例えば小林耕平)」「深夜アニメ(例えば「攻殻機動隊S.A.C)」というものがバラバラにあって、それらについて考えようとする時、それぞれについて異なる枠組み、異なる概念、異なる言葉づかいで考えることになってしまうという事実がありました。近代絵画について考える時と、深夜アニメについて考える時は、自ずと別のフレームが選択されてしまって、つながらない。なので、この三つの関心対象を、ある程度は連続的なパースペクティブに置きつつ、その違いについてもちゃんと言えるような枠組みを考えられないだろうかということから、メディウムスペシフィック、ポストメディウム、トランスメディウムという区分を考えました。
(加えて、あらゆることを社会的に開いてゆこうとする風潮に対して、閉じることと開くことの両方を、ちゃんと考えられる必要があるという問題意識もありますが。)
なので、この抽象的な枠組みから、再度、具体的な対象に下ってゆこうとする時に、その対象が必ずしも「近代絵画」「現代美術」「深夜アニメ」となることが適当とは限らないし、相互が、必ずしもきれいに対応するとも限らないとは思っています。この点についてはもっと丁寧に考えないといけないと思います。まあ、それを丁寧に考えてゆくために考えた枠組み、ということです。
ただ、ぼくとしては、具体的な興味の対象としての「近代絵画」「現代美術(の一定の傾向)」「深夜アニメ」が、最初にある(面白いものがそこにある)、ということは外せないのですが。面白いものについてどう考えるのかが問題で、状況の正確な地図を描くのが目的ではないというわけです(だからといって、地図として不正確でいいということにはなりませんが)。