●お知らせ、というか、これを書いている時点で既に過去ですが、東京新聞、7月7日の夕刊に、国立新美術館ジャコメッティ展の美術評が掲載されます、というか、されました。
●以下は、5月26日の東京新聞、夕刊に掲載された、平塚市美術館の「リアルのゆくえ---高橋由一岸田劉生、そして現代につなぐもの」についての美術評のテキストです。

写真の技術が一般化したことで、西洋の画家たちが見えるものの再現とは別の絵画の可能性を模索していた一九世紀後半、高橋由一は西洋画の迫真性から強い衝撃を受けて物の細密な描写を志した。日本でも既に写真は普及し出していたので、写真以上のリアルさを西洋画から感じたのだろう。
勿論、明治以前の日本にも細密描写は存在した。では、日本にあった細密描写と西洋画の迫真性の違いはどこにあるのか。由一は、その基本は着色の濃淡にあると書き残している。これは、濃淡によって表現されるマッスのことだと思われる。マッスとは量塊と訳される美術の用語で、物をごろっとした塊として捉えることだ。デッサンの初心者が石膏の球を描くのは、物を輪郭線ではなく塊として見る訓練だ。明治以前の日本の細密描写は、表面を鮮やかに写すが塊という感覚は希薄だった。
さらに油絵具の強い物質感もあろう。堅く練った絵具を塗り重ねることで得られる質感により、絵そのものが描かれる対象と同等の強い物質的存在感を持つ。物質感を伴うごろっとした塊。この感覚こそが、それ以前の日本の絵画になかった、そして写真とも異なる、西洋画から見出された迫真性だったのではないか。
写真による、表面的で形態的な再現性とは異なる、塊的で物質的な迫真性。これは、西洋の画家にとってはある程度形式化された技術だが、それを未知の感覚として捉える眼によって別の命が吹き込まれた。明治の写生画には、近代化による異質なものとの衝突という出来事が刻まれている。
高橋由一の絵画が今でも力を失わないのは、この衝突の強さによると思われる。由一は、たんに西洋画をお手本にして描いたのではなく、西洋画の迫真性から受けたショックによって描いた。だからこそ、中野重治に「迫真に物狂いのようになっている」と言わせる迫力を持ち得た。
高橋由一岸田劉生の絵画で表現されるのは物の描き尽くせなさだろう。それは、物というより物の存在であり、いくら迫っても迫り切ることのできない物が、しかし確かにそこにあるという感覚だ。対して、現代の細密描写の画家の多くは逆に、描写の緻密さが幻惑性や幻想性の効果となって表れているようだ。良し悪しの問題ではなく、これも時代の必然であろう。