2019-03-15

デュシャンの「網膜的絵画」という言い方は不当なように思える。それは、自分の立場を正当化するために(自分の立場を押し出すために)、敵を想定して(名指すことで何かをひとまとめにグルーピングして、それを「敵」として立てて)、必要以上に(実態とは異なる描写で説明して)それを貶めるような言い方であるように思われる。

ただ、デュシャンの意図としては、おそらくそういうことではないのではないかとも思われる。デュシャンは、ある時いきなり、あらゆる「近代絵画的なもの」に飽きたのではないか。「網膜的絵画」という切り捨て方は、それには「もう飽きた」という事実の表明なのではないか。

なにかに飽きるということは、正当な出来事であり、健康的なことである。「飽きること」自体を非難することはできない。そして、「飽きる」ということそのものが、一種のインスピレーションでもある。飽きることによって、物事は新たなフェーズに移行する。

(進化の過程で、あるときに猿がふと立ち上がるようにして、人は、ある時にふと何かに飽きることがあるのだと思う。)

たとえば、「セザンヌの絵画は網膜的なものにすぎない」と言うとき、それが、「そういうものにはもう飽きたんだ」ということの表明であるのならば、それは正当な物言いであろう。自分はそれに飽きたから、別のことをやるのだ、と。

(ぼく自身は、「近代絵画的なもの」にまだ完全に飽き切ってはいないが。)

しかし、「網膜的絵画」という言い方が、何かを批判するための根拠として(何かを否定して、そうではない自分たちの立場を正当化するための根拠として)使われる時(そしてそのような時、デュシャンという美術史上の権威がその正当化の後ろ盾として利用される)、それはまったく不当な物言いでしかなくなるように思われる。セザンヌキュビスムが「網膜的」なだけであるわけがない。

●芸術にとって「美」とは何か、ということを考える。たとえばデュシャンにとって、チェスが「美」であったと考えられる。それは勿論、チェスのボードや駒が視覚的に美しいということではない。そのような意味での「美的な趣味」をデュシャンレディメイドによって避けようとした(「否定」しようとしたのではないのではないかと、ぼくは思う)。美のために、「趣味のゼロ度」地点が要請されたのではないか。そして、美は、チェスというゲームのなかにあり、「チェスをすること」のなかにある、と。

しかしそれは、純粋に実践に徹する、プレイヤーになりきるということとも違うのではないか。美には、「実践する(行為をする)」ということだけでは足りなくて、同時に、その実践そのものを対象化するというレイヤーも必要となる。動き続けていて対象化し得ないものを、それでも対象化するところに「美」という次元があるのではないか。だから美は、ベタに実践するだけでもなく、メタ的に対象化するだけでもない、半メタ的なものなのだと思う。

(だから「美」は常に、半ば抽象的なものなのだろう。)

終わりのないもの、動き、変わり続けるもの、外に触れつづけるもの、形に収まらなくて移ろうもののなかにだけ現れるもの。そのようなものを、終わりがあり、限定があり、内部にあり、形があるもののなかに封じ込め、終わりがあり、限定があり、内側であり、形があるものとして表現すること。

美とは、行為そのもの(プレイそのもの)にあるというより、プレイヤーそれぞれのプレイスタイルのようにしてあるのではないか。それは、行為そのもの、具体的な場面や関係性、その都度行われるプレイなどより抽象的なものであるが、それを外側から明示的に定義することはできないもの。しかしそれを、ある「抽象的な像」として思い浮かべることはできるもの。そのようなものとしての「プレイスタイル=抽象的な像」が浮かび上がる時、それが「美」であると言える。

(あるいは、定義可能だとしても「定義そのもの」とは違うもの、「定義」の直観的な「像」であるようなもの。もちろんこの「像」は視覚的なものということではない。美的な「像」は、特定の感性の形式---視覚、聴覚、触覚など---には拘束されない抽象度をもつ。)

ある作品を知り尽くすことは出来ないが、その「知り尽くすことのできなさ」のありようをひとまとまりの像として直観的に把握することが可能であるという時、そこに「美」があると言えるのだと思う。

そのような意味で「美」とは一種の隠喩でありフィクションであると言えるのだが、しかしそれは、メタの方にだけでなく、ベタの方(実践の方)にも通路が開いているような隠喩である。半メタ的であるということは、ベタへの通路が閉じられていない(ベタの方向へも遡行、介入可能である)ということだ。しかしそれでも、美はベタそのものから離陸している。

(一方に、伝統的で職人的なものづくり、のようなものがあり、他方に---現代アートでおなじみの---インタラクション、プロセス、関係性、政治、アーカイブ、スペクタクルなどがある。これらはどれも大抵がベタかメタかのどちらかに転ぶのであり、「美」が欠けてしまいがちだと思う。それらのすべてを否定するわけではないが。)

(以上は、『マルセル・デュシャンとチェス』を読みながら、なんとなく考えていたこと。)