●昨日の夜遅くまで、というか朝方まで用事をしていたので、目覚めたらもう午後で、顔洗って、歯磨いて、ヒゲ剃って、すぐに部屋を出た。エミリー・ウングワレー展の最終日だったので、なんとかもう一度観たかった。4時過ぎには新国立美術館についたので、二時間くらいゆっくり観られた。
裏に黒幕の存在がチラつき過ぎるとか、アボリジニだということを前面に出した売り方が嫌らしいとか、それをモダニズムと結びつけて評価しようとする批評家がバカみたいだとか、ひっかかるところが多々あるにも拘らず、作品そのものはやはり圧倒的に素晴らしい。絵を描くことってこういうことだよなあ、と。あるいは、絵を描くことと、絵を描くことの手前にあるもの(自身の身体としての波動のようなもの)との関係って、こうあるべきだよなあ、という感じがひしひしと響いて来る。この感じが教えるのは、絵画というものは、実は、あんまり歴史とは関係ないんじゃないか、ということなのだと思う。それはつまり、この画家の絵がモダニズム絵画に似ているのではなく、モダニズム絵画の方に、その内部に、歴史とは無関係な場所で絵画を成立させようとする指向性がもともと存在していた、ということではないだろうか。それは、外にある超越的な普遍性というよりも、絵画と、絵画の手前にあるもの(個々の身体)との関係性の普遍性のようなものなのではないだろうか。
●最初の頃の、点描が無限に増殖してゆくような作品では、ほとんどフレームが意識されていないように感じるのだが、次第に、フレームを意識しているような形態が登場し、さらに、線の仕事になると、明らかにフレームに対する意識があって手が動いているように思われるのだが、これが実際、どの程度画家本人の感覚によるもので、どの程度、それを後から木枠の張る「黒幕」たちの判断によるものなのかが、いま一つ明確ではないのだけど、それでも、キャンバスにアクリル絵具というメディウムで描きつづけていくうちに、次第に、必然的に、フレームという意識が芽生えて来るということは確かなのではないか。もし、この画家に、ある種の西洋絵画による抑圧(刻印)があり得るとしたら、モダニズムの形式とか教養とかではなく、アクリル絵具とキャンバスというメディウムのそのものもつ形式性であり、物質性なのだと思う。
●この画家の色彩は濁っている。そして、その濁りにこそ、独自の質がある。この濁りこそが、重層性を、つまり透明性を感じさせるのだ。ただ、厚く塗り重ねられるから重層的に感じられるのではなく、そこに(濁りの質による)透明性が発生するからこそ、独自の厚みや重層性が生まれる。この画家の色彩を観ていると、物質としての絵具は、キャンバスの上で混ざるのだが、色彩は、それを観る人の眼のなか(頭のなか)で混ざるのだ、ということが感じられる。眼(頭)のなかで混ざるということは、ある色は、その周囲にある色に常に干渉されて、そう見えるということだ。である以上、色は常に、実際に見えている以上の何かを、感覚のなかで生み出すことになる。筆のタッチが見せているものは、実際に画家が行った行為の痕跡ではなく、筆を置くという「感触そのもの」であり、そしてそれ以上の「別の感覚」なのだ(それは、砂まじりの空気の感触だったり、土の匂いだったり、太陽が肌に当たる感触だったりする)。そしてこの画家に、透明性のある濁りを実現させたのは、アクリル絵具の特性があってのことなのだ(勿論、絵具の潜在的特性を自身の感覚にあわせて引き出す力が画家にあったからこそなのだが)。
●色が見せるのが感触だとしたら、線が見せるのは、おそらく身振りのようなものだ。身振りは、行為そのものではなく、行為が見せる(感じさせる)、行為そのものとは別の何かのことだ。例えば、話している人の手振りを見る時、そこで観ているのは、その人の手そのものではなく、手の動きそのものだけでもなく、手の動きが示す何かしらの表情や感触だろう。しかしまた、その人の手そのものが持っている形や特徴(指が長いとかごつごつしているとか、大きいとか小さいとか)は、身振りのつくる表情にも影響を与える。そしてここでもまた、線は身振りの痕跡を示すのではなく、線それ自体が、身振りそのものとしてあらわれる、ということだ。線-身振りは、表情であると同時に動きそのものでもあるから、そのフレーム内部に表情をつくるだけでなく、その空間全体を動かす力をもつ。そして、その線に色彩の質が加わる時、動きの作る表情に、色彩の相互干渉のつくる感覚が混じり合い、そこからたちあがる感覚は、よりいっそう複雑に膨らんでゆく。
●美術館の帰りに、新宿に寄ってジュンク堂の「古谷利裕フェア」の棚をのぞいてみた。担当の人の話だと、ぼくが行った時にはもう既に、希少本で一冊しかなかった『ルネサンス 経験の条件』と、美術出版社の〈現代美術の巨匠〉シリーズの『マルセル・デュシャン』の巻は、売れてしまっていたということだった。
あと、このフェアの二期では、『トリシャ・ブラウン 思考というモーション』という本が置いてあるのだけど、この本に載っているトリシャ・ブラウンのドローイングが(エミリー・ウングワレーとはまた全然ちがったかんじだけと)とても素晴らしいので、立ち寄った方には、一度は手にとって観ていただきたい。この本は、いわゆる通常の出版社から出ているものではなく、ごく限られたところでしか取り扱ってないので、この機会に是非。