●銀座のなびす画廊で杉浦大和展(http://www.nabis-g.com/exhibition/2010/sugiura-h.html)。
筆触があり、それがいくつか重なって小さな色面(かたち)となり、それよりも大きな色面(かたち)があり、それがさらに大きくなると「かたち」というより色のひろがりとなる。筆触とかたちとひろがり。これら三つの異なるカテゴリーは、しかし明確に分けられるわけではない。筆触はいつの間にかかたちとなっており、かたちはいつの間にかひろがりになっている。あるいは、ひろがりは見方によってはかたちとも見えるし、かたちもまた、見方によっては筆触に見える。このようなカテゴリーの相互浸透は、観る者に対しパースペクティブの混乱を招くだろう。つまり、何処に焦点を当て、何を根拠として視覚を組み立てればよいのかが、わからなくなる。
筆触を筆触として捉えようとする時、ある筆触を背景となる色のなかから浮かびあがらせることになるのだが、その背景がたんに背景ではなく、既に複数の色面のせめぎ合いとしてあるので、観ることの焦点はすぐに背景の方にずれ込んでいってしまう。あるいは、画面全体を青い色の散らばりとして捉え、そこから、青と緑との響き合い、青と紫との響き合いという風に視覚を組織しようとしていると、目の端に赤い色がよぎり、またたくまに画面は、赤の散らばりによって支配され、そのショックが黄色との響きによって緩和される、という風に見え方がチェンジしてしまう。
絵画にはフレームがあり、それを全体を見渡すことの出来る離れた場所から観る。つまり全体が一挙に捉えられるような上から目線で観られる。だからこそ画家は、観者のそのような上から目線が決して成立することのないように、画面を構築する。観者が、「要するにこの絵は、青の散らばりに対する、緑と紫の響きによって構築されてるんでしょ」と理解しようとすると、そのような把握の時には背景に退いていた赤が自らの存在を主張して、その理解-要約を瓦解させ、改めて、新たな視覚の構築を観者に要請する。あるいは、空気のような色彩のひろがりを背景にして、リズミカルにタッチが配置されている絵なのだと理解しようとすると、中間的な色面(かたち)が目に入ってきて、それを媒介として、自分こそが画面を決定しているとでも言うかのように「色のひろがり」がぐぐっとその存在を主張し、主従は逆転するだろう。そしてその時、逆転を支えるものとして中間的な色面(かたち)のはたらきも改めて認識される。ここではたんに、図と地が反転するのではなく(そのような単純な二元論ではなく)、クラスとメンバーが混同され、ずれ込むことで、認識の配置そのもの(見ることを支えているものの配置そのもの)が常に揺らいでいて、「配置全体」が、何度も崩壊と再配置とを繰り返すことになる。言い換えれば、一つの画面のなかに、無数の異なる絵画の可能性が、可能性として共存している。
ここで問題にされているのは、知覚を通して、決して知覚されない、知覚の下にある、知覚そのものを支えている働きに「はたらきかける」ということなのだと思う。
だから画面は、きわめて複雑な秩序によって制御されているようであるのと同時に、混沌へと落ちこんでしまう一歩手前でぎりぎりに踏みとどまっているようでもある。やわらかな筆触で置かれるやわらかな色彩は、高度な絵画的趣味によって制御され、洗練された美しさをもっているように見えると同時に、美しさになど頓着しない厳しい構築原理にひたすら奉仕しているようでもある。
とはいえ、ある意味、厳しい試練でもある(絶えざる視覚の再配置としての)「作品を観ること」に観者を誘い、見ることを持続されるものは、その色彩の美しさであり、色と色、形とかたち、筆触とかたちとを、決して激しく(派手に)ぶつけ合わせることのない、やわらかくてやさしい手つきであろることは確かだろう。この、美しくてやわらかい感触に誘われ、魅了されることではじめて、観者は、見ることの試練(常に見る位相を変化させつつ見ること)に耐えることが出来る。美しさと穏やかさの裏側にある苛烈さ。これは勿論、画家が一方的に観者に強要するものではなく、まずはじめに、制作の過程において誰よりも強く正確に画家自身によって経験され、生きられたことであるはずで、がたらこそ観者も、それを追体験出来るのだ。
クールベがいて、マネがいて、セザンヌがいて、マティスがいて、ポロックやロスコがいてという、近代絵画の豊かな富を受け継ぎつつ、それをもっともっと遠くまで発展させた作品のひとつだと言えると思う。それは、絵画への回帰、モダニズムへの回帰といった馬鹿げたことではなく(あるいは、ある時期に日本でも流行った抽象表現主義風の絵などとはまったく関係なく)、たんに絵画の未来であり、未来の絵画の可能性の一つがここにあるということなのだ。