●地元の古本市で、93年にやったクレーの展覧会の図録を買った。
線というのは概念であり、厳密に言えば感覚不可能なものである。線が見えてしまえば、それは既に純粋な意味で線ではない。にもかかわらず、我々は線を見る。見ることが出来る以上、そこには幅があるのだから線ではないはずだが、それを線として見る。ある幅をもった色の帯を「線」として見る。線として見るとしても、それは色を持ち、幅を持ち、あるいは、それを描いた身体の呼吸や運動を想起させる。線であると同時に、線以上のものである。
輪郭線は、輪郭を示す線であって、輪郭そのものではない。「線」が見えてしまう以上、輪郭線もまた、輪郭のみを示すことは出来ない。純粋な輪郭線とは、例えば●という形の白と黒との間のエッジそのもののことでそこには幅はないが、それを○と描いてしまうと、丸い形と同時に、それを囲う(純粋な線ではない)「線」が見えてしまう。●と描けば、形態と、それを浮き上がらせる背景とは別の色だが、○と描けば、形態と背景とは同じ色のままで(通底したままで)、丸い形が浮かび上がる。と同時に、背景でも形態でもない中間の領域が感覚される。それを、丸い形として感覚する時、線はいわばその次元(平面)には存在しないブランクとなる。しかし、線そのものに注目すると、丸い形をした線(黒い帯)として感覚され、知覚の対象となる。その時、線の内側の白いひろがりは、空虚として感覚されるのか、それとも、充実した内部をもつ丸い形として感覚されるのか。あるいは、閉じられていない線、例えば「」は、時に、二本の線として感覚され、時に、欠けた部分のある四角い形(それを囲う線)として感覚され、さらに、四角い形を隠している対角線上の白い帯を浮かび上がらせもする。線の「配置」は、色彩や筆触の配置と同等に重要である。あるいは、線は半ば抽象的な存在であり、その意味や機能の可変性が色や筆触より大きいと言う得るので、それら以上に配置が重要となる。
そして、具体的に引かれる一本、一本の線の、表情や色彩は、それらの機能をさらに複雑にする。
さらに言えば、画面に置かれたある痕跡について、どこまでを線とし、どこまでを筆触とし、どこまでを色面とするのかという境界が、画定されてあるわけではない。それは、「それ」が画面上でどのように機能しているかによってしか分けられない。さらに言えば、「それ」を「何として(線として、筆触として、面として)」見るのかによって、画面上での機能が異なってくる。つまり、画面の構造が変動する。同じ画面でも、意味がかわり、動きがかわる。線を描く時、それらの潜在的な機能をすべてを、意識しないとしても、操作していることになる。
●本屋をのぞいたら、『また会う日まで』(柴崎友香)が文庫になっていた。前に柴崎友香論を書いた時、『きょうのできごと』から(その時点での最新作だった)『星のしるし』までを改めて読み返してみて、もっとも心に強く残ったのが『また会う日まで』だった(もっとも好き、とは少し違うのだが)。
あと、この小説の冒頭近くに出てくる、ビルの三階にあるベトナム料理屋に、ぼくは実際に行ったとしか思えない。似た店に行ったとか、モデルになったであろう店に行ったということではなく、小説の描写として読んだ記憶が、実際に行ったのと同じくらいの強さをもった記憶となって、自分の経験の記憶と混じってしまっているのだった。