●昨日の、「組立」対話企画(上田和彦×林道郎)を聞きながら、なんとなく考えていたことを書いてみる。以下は、昨日の話の紹介でもないし、直接的な言及でもないが、しかしその話に刺激されたもので、それに多くを追ってはいる。
●「筆触」というのは複数のものが「触れる点」であって、それ自体としてあるというよりは、ある関係の反映としてある。それはまず、筆と絵具と基底材との関係であり、それを出会わせる、描く身体の眼と手との関係であり、さらに、眼と手との関係の間にある、例えば腰であったり、肩、肘、手首、膝、足首、等々の接続-関係の反映として、出現する。絵具の練りの硬さ、粘度、筆の毛の硬さ、しなり、キャンバスの張りの強さ、反発、表面の滑らかさ、粗さ、それらを感じるのは手首であり、肘であり肩であり、それを感じている腕の動きに反応する腰や膝や足首の動きであり、それら全ての関係を調整する身体の軸や重心の移動である。筆触は、出来上がったものとしての視覚的なイメージであるよりも、そのような身体の動きと反応を生みだす諸項の関係-接続のあり様としてイメージされる。
●その時、それを描く画家の身体の内部と外部との差異(境界)は、筆触をつくりだす関係項としては区別される必要はない。腰や肘の使い方を変えることと、絵具の種類や筆の長さやキャンバスの表面の加工を変えることは、ほぼ同等のことだ。筆触は、あるいは筆の動きは、そのような無数の項の関係のさせかた、あるいは諸項のモンタージュの仕方によって、結果として合成される。
●ある筆触の効果が事前にイメージされ、そのために諸項の関係が調整されるというよりも、諸項の新たな関係性が、新たな筆触、新たな線の動きを結果として生み出す。とはいえ、やはり、それら諸項をどのようにモンタージュするかというイメージは、ある程度は、結果としての筆触のイメージの方からもやってくる。諸項と、その各項を制御する感覚どうしを「どのようなやり方で組み立て、制御するのか」についてのイメージは、既に(過去に)ある筆触のイメージに助けられることもある。
●では、筆触は、そのような、描く身体-道具の連続体における、様々な動き-感覚の結節点である諸項間の関係の在り方、させ方そのものを表現するためのものなのかと言えば、おそらくそうではない。筆触は、それ(描く身体-道具-絵画という連続体としての「ある身体」)を否応無く反映はするが、それそのものを表現するためにあるのではない。筆触は、描く身体(の固有性でも、無名性でもどちらでもよいが)そのものを表現するものではない。筆触は、それを描く身体の各項間の関係によってつくり出されるが、それが表現するのは、あくまで視覚的な(セザンヌが言うような意味での)ある「ひとつの感覚」であるはずだ。その感覚は、身体そのものの表現(あるいは刻印)ではなく、そこから切り離されたものとして浮上するものであるはずなのだ。
●ひとつの筆触(筆触によって表現される「感覚」)は、それ自体としての固有性を主張するものでは決してない。それは、それを描いた画家という固有の身体を刻印し、表現するのではない。ひとつの筆触は、その筆触が置かれたフィールドとしてのキャンバスのひろがりとの関係のなかにあり、そのキャンバス上に置かれた別の筆触との関係のなかにもあり、それは既に画家の身体的固有性から引き離されて、表現の次元に移行している。ある筆触は、筆触としてあらわれた途端に、その固有性を失い、表現をかたちづくる諸項のなかの一項となる。ひとつの筆触はキャンバスの上で、ある身体-道具の連続体のあり様の反映としてのものから、ある表現のフィールドの内部で作用する関係の一項へと移行する。ある筆触が、「ほかでもないその筆触そのもの」として感じられるとしても、その時、そこ(キャンバス上)には、そのように感じられる表現の関係(モンタージュ)が合成されているからだろう。
●そのような意味で、筆触は、筆触として認知された時から既にオリジナルではなく、シミュラークルとしてしか現れない。とはいえ、それはある固有の(もしかしたら一度きりの?)関係性によってしか生まれない、簡単には反復、模倣できないような複雑さがあらかじめ織り込まれており、その位置はそう安定したものではない。幽霊は、なにかしらの物質(現実)のエコーであり、イメージの反復であるが、幽霊には幽霊としての、それでしかあり得ない独自のテクスチャーもある。幽霊が既に反復だとしても、一度しか現れない幽霊も存在するかもしれない。ある幽霊があらわれた時点では、その幽霊が反復されるものなのか、そうでないのかは決定出来ない。というか、二度目の幽霊があらわれた時に、遡行的に一度目の幽霊が確定され、はじめて「ああ、これは幽霊なのだ」と分かるのだ。
ピカソには、あきらかに固有の手癖がある。ある固有の色彩への好みがあり、フォルムへの好みがあり、手癖がある。ピカソが、自在に形式を変化させることが出来たのは、一方で、決してその形式に還元されないピカソ固有の手癖-身体への信用があったからだとさえ感じられる。どんな形式においても、ピカソはきわめてピカソ臭い。しかし、このような考えは転倒しているのかもしれない。どんな形式においてもあらわれるピカソ臭さこそが、ピカソの身体の固有性というイリュージョンをつくりだす、とも言える。実際、ピカソはおそらく、自身の手癖を「意識的」に使用していたことは間違いはないように思われる。シミュラークルとしての自らの「手癖」と意図的に戯れるポストモダンピカソ。しかしこのような言い方もまた、あまりに単純すぎる。
ピカソの線には、あきらかにピカソという偉大な画家の他ではないオリジナルな何かが刻印されてはいる(それは、ピカソの飛び抜けた「運動神経」のようなものを証明している)。しかし、ピカソの絵は、ピカソ自身の固有性を表現するためものではない(結果としてピカソ自身を表現してしまってはいるとしても)。ピカソの線に、色彩に、どうしたってそこにみられる「固有性」を、画家は意識的にもう一度外から捉え直し、固有性そのものを「表現の一つの要素」として用い、表現のフィールド内での諸関係をかたちづく結節点である一項へと格下げすることで、「自身の固有性」を「表現としての固有性」へと場を移行させること。それは自身の身体を作り替えようとすることであり、自身の身体の固有性を世界へと返そうとすることであるように思われる。それは戯れなどではなく、もっと大きな、もっと切実な何かだ(ピカソが、多分にニヒリスティックであったことは間違いないにしても)。そして逆に言えば、固有性を突き抜けるような行為は、自身の身体の固有性を通して(媒介して)しか可能ではない、ということなのだと思われる。ここでは、もしかしたら固有性という言葉は適当ではなく、「何度も繰り返しあらわれるものとしての性格」と言った方がいいのかもしれないのだが。
●とはいえ、では、「自身の固有性」と「表現としての固有性」とは一体どこがどう違うのだろうか。あるいは、表現としての固有性は、世界そのもの(現実?)と、どのように関係するのだろうか。少なくとも、表現の固有性は、ある限定された空間と時間とに閉じこめられた自身の固有性よりも、より大きいものを目指す。あるいは、別の次元を目指す。別の次元にある現実との関係をつくる。現実の別の次元への回路-接点を開く。等々。