●国立新美術館のモネ大回顧展について。モネの色彩は、決して明るくはないし、澄んでもいない。多くの作品でむしろ、暗くて濁っている。そして、モネの絵画独自の魅力は、(いかにも印象派的な明るい絵よりも)暗くて濁った色彩にこそあるようにぼくは思う。濁った、という言い方は正確ではなく、くすんだと言った方が良いかもしれない。その色彩のくすみは、絵の具が生乾きの状態で次から次へとタッチが追加されることで、キャンバス上で絵の具が混ざることによる。画面にのせられる筆触は、絵の具を塗布するだけでなく、完全には乾燥していない下の絵の具をひっかけ、筆によって塗布された絵の具と混ざり、筆の動きによって流れる。この、画面上で直接的になされる混色が、モネに独特の色彩をもたらす。もし、パレットの上で同じような色彩をつくって画面にのせたならば、本当に濁った、汚い絵になってしまうだろう。絵の具全体を混ぜてしまうのではなく、下の層の上っ面だけが、上の層の絵の具と混じる。このことで起こる微妙な色彩の濁りと、しかし濁っていながら、その下からぼうっと光りが射してくるような(半)透明感が生まれる。(モネのタッチの絶妙さというのは、これを生むためのものなのだ。)モネの色彩は、清涼で透明ではなく、半ば濁り、半ば澄んでいる。これは、印刷図版などで観ると、パステルカラー調にも見えてしまったりするのだけど、実物を観ると、その印象よりもさらに「暗い」のが分る。しかしその暗さは、内側に光りを含んでいるので、決して潰れたような暗さではなく、(半ばくすみつつ)澄んだ暗さとなる。モネ独特のこの「澄んだ暗さ」は、図版では決して再現されない。例えば、普段は国立西洋美術館で松下コレクションとして常設されている「舟遊び」(1887)にみられる濃い青というか青紫の色調は、おそらくモネ以外の画家には真似することのできないものだと思う。(例えばルーアン大聖堂の連作のような比較的明るい絵でも、その白は濁っている。このように白をうつくしく濁らせることの出来る画家を、ぼくは他には知らない。有名な「サン・ラザール駅」はたしかに立派な良い絵だが、このくらいに「良い絵」なら、他に描ける画家はいるだろう。)そしてこのような、半ば濁り、半ば澄んでいるような独特の暗さが画面に最も魅力的にあらわれるのは、多くの場合やはり水面が描かれる時なのだ。ぼくにとってモネを観ることの「意味」は、この「澄んだ暗さ」や「半透明の濁り」を体験するということで、それ以外の意味はほとんどない。しかしこれは、モネほ絵を観る以外のことでは決して経験することのできない、素晴らしいものなのだ。(この「澄んだ暗さ」のなかには、盲目に対する激しい恐怖の感覚さえ含まれているように思える。)
●ところで、晩年のモネは、その筆触が特に目立って前に出て来る。しかしこのことを、後の抽象表現主義との関連などで持ち上げるのは間違っていると思う。筆触それ自体が目立ってしまうことを、モネは決して望んではいなかったはずだ。実際、筆触が必要以上に目立ってしまう作品は、絵としてあまり成功していない。モネが求めているのはあくまで(半ば濁りつつ)「澄んだ暗さ」のなかで、位置を失った光りが揺らめき立つような感じのはずで、それには、筆触そのものや絵の具の物質感が前に出て来てしまっては困るはずなのだ。(この筆触そのものの前景化からは、「粘り」の不足を感じる。)筆触が目立ってしまう原因として、視力の低下によって今までのように色調を微妙にコントロールすることが困難になったこと、そしてさらに、自身の探求を大胆に前に進めたことによって(つまり、より難しいことにチャレンジしているため)「打率」が低下し、必ずしも成功していない(中途半端なかたちで放棄したような)作品も増えた、ということなのだと思う。この展覧会で観ることの出来る晩年の作品は、成功しているものはとても少ない。しかし、にも関わらず、必ずしも成功しているわけではない作品からでも、この画家の最後の到達点の尋常ではない迫力は充分に伝わって来る。(良い画家というのは、最晩年に最も「凄い」仕事をするのだということを、改めて思い知らされた。)ぼくは特に、マルモッタン美術館の方の「日本風太鼓橋」(1918-24)を観て、戦慄に近いような感銘を受けた。いわゆる「印象派」の画家が、最晩年にこんなところまで行き着いたのかと思うと、画家の(作品探求上での)「生涯」の苛烈さを突きつけられた感じだ。
●モネの晩年の作品群のすぐ近くにリヒターが展示してあったのだが、モネの近くにあると増々そのインチキ臭さが際立つ。本当に、たんにシステマティックなだけの、上っ面の効果だけの絵なのだ。まあ、リヒターなんてどうでもいいのだけど、嫌いだからつい悪口が出てしまう。しかし、この展覧会の、モネと現代美術との抱き合わせ商法みたいな展示は、いかにも薄っぺらいと思う。ここで指摘されている影響関係はあまりに表面的で、本当に、これらの作品がモネと深い影響関係(あるいは共鳴関係)にあると思って展示しているのだろうか。まあ、何点か良い作品が観られたので、それはそれで良いのだけど。
●「異邦人たちのパリ/1900-2005」は、あまりたいした作品もなく、退屈な展覧会だった。ぼくとしては、ポリアコフの絵が三点観られたことがうれしかった。ポリアコフはロシア出身の画家で、地味過ぎるほど地味な、ごく普通の抽象絵画を描く人なのだけど(だからなかなか日本では観られないのだけど)、「趣味」としてとても好きなのだ。あと、ジャコメッティの彫刻に当たっているライトが強過ぎて、陰影がくっきりと出過ぎで、影の部分が暗過ぎるし、明るい部分が眩し過ぎて、観難くて仕方がなかった。それにしても、ジャコメッティの彫刻は、それを観るべき適切な距離がいつもよくわからなくて、そこが何とも面白い。遠くから、他の作品を観ようとして目の隅にチラッと見えたときに、すごく良かったりする。
●ナディッフの「サウンドテストほか」(田中功起)。これは「作品の展示」ではなくて、(よくある「現代美術的な手法」を使った)作品集の販売促進のための「ディスプレイ」でしかない。