モネ大回顧展、追記

●モネの睡蓮の連作を網羅した(異様に横長サイズの)画集を持っていて、昨日の日記を書いたあとそれを観ていて反省したのだけど、「回顧展」のつくりだす「偽の物語」にハマってしまっていたところがあったのかもしれない。画家の作品は、世界中のいろんなコレクターや美術館に買われて散逸していて、その画家が一作、一作積み上げていった思索や実践や飛躍をきちんと後追いすることは困難で、それはそれこそ研究者の一生の仕事となるようなものだ。回顧展とはいってみれば、たまたまあつめることの出来た作品たちによって、「流れ」のようなものがあるかのように仮構して展示するということで、しかし例えば晩年のモネの睡蓮の連作の重要な作品は、ほとんど2メートル×5メートルとか10メートルとかの作品で、それはコレクションされている美術館から動かせないから、それを抜きにしてあつめられた睡蓮の連作からみられる「推移」などは、いってみれば、『めまい』や『鳥』を抜きにして、『マーニー』や『トパーズ』だけを観てヒッチコックの晩年を理解したつもりになるようなものだろう。
ぼくは別に「重要な作品」でなければ観る意味がないとか、それらをちやんと観ていなければモネを理解出来ないとか言っているのではない。むしろそれとは逆のことだ。たった一点だけのそれほど重要とはみなされていない絵を観ても直感的にモネの核心を理解することすら出来ると思う。というか、作品や作家を理解するというのはそういうことでしかないと思う。というか、そういう風にして掴むしかないもののことを作品と言う。(『サイコ』を観ないでヒッチコックについて語るな、とか、そういうつまらない事を言うつもりはまったくない。)そうではなくて、展示という「偽の物語」がつくりだす「流れ」が、画家の(その都度その都度の)思索や実践の積み重ねを、たんに「スタイルの変遷」のように見せてしまうということの「罠」について言いたいのだ。というか、実は穴だらけの点のあつまりを、あたかもなだらかな「流れ」であるかのように観てしまいがちだという「罠」、と言うべきだろうか。「流れ」を掴んだと思い込むことで、あたかもその作家の思索や実践全体像を掴んだかのように思い込んでしまう「罠」というのか。つまり、「作品」ではなく、たんに「展示」や「キュレーション」によってつくりだされたものを観てしまいがちだ、ということなのだ。(そこにあるのは、たんに「そこにある作品」であって、なにかしらの「流れ」を示すためのひとつのパートではない。だから、たんにそこにある作品を観るべきなのだ。)作品を観る(経験する)のではなく、作風の流れを「理解する」という見方になってしまう。展示がつくりだす偽の物語、あるいはキュレーションという権力(暴力)に逆らうには、ベタではあるが、一点一点の作品のそれぞれに丁寧に対するということが重要であるように思う。というか、それしかないと思う。簡単に「流れ」や「位置づけ」でものごとを掴まないという愚直さも必要だろう。