ラウル・ルイス『クリムト』をDVDで

ラウル・ルイスクリムト』をDVDで。ラウル・ルイスは百本以上の映画を撮っているらしいのだけど、ぼくが観たのは『見出された時』だけだ。で、『クリムト』は基本的に『見出された時』の縮小再生産のように感じられてしまう。
ラウル・ルイスは、クリムトにも、ヨーロッパの世紀末の退廃的官能みたいなものにも、あまり興味がないように思う。それは、冒頭に出て来るエゴン・シーレ役の俳優の顔が、ウィーン分離派的な退廃とも官能とも関係のなさそうな、妙に健康的な、甘いお坊ちゃん顔であることから、すぐに感じられる。ラウル・ルイスの興味は、イメージの増殖がオリジナルという位置を危うくするというようなことで、シミュラークルとかなんとか言ってもいいのだけど、ラウル・ルイスの映画ではそれは主に、映画のリニアな時間や説話の流れを解体するように作用する。『見出された時』において、イメージを増殖させ、拡散させるものは記憶の想起であり、なによりもプルーストの偉大なテキストであり、それはもう、はじまりがあって終わりがある映画のリニアな流れを観ている間は忘れてしまうような、出口のない迷路にハマり込んだように停滞する時間を作り出す。『クリムト』においても、死を前にしたクリムトが人生を想起するようなつくりにはなっているけど、ほぼ時系列にそってエピソードがならべられているので、映画の時間自体が迷宮をつくりだすというほどのことはない。
ラウル・ルイスは、特にクリムトの絵画に興味があるとも思えない。この映画を支えているのはおそらく、パリ万博におけるクリムトとメリエスの邂逅というエピソードだと思われる。これが歴史的事実なのかどうかは知らないけど、クリムトがパリに行き、メリエスの映画のなかに(スクリーンの上に)、自身の偽物と運命の女(の偽物?)とのツーショットを観てしまったという事実が、この映画のイメージの増殖と迷宮化にきっかけと根拠を与える。この後、イメージの増殖によってオリジナル(現実=同一性)という位置が確定できなくなる様が示される。この映画でクリムトが主題として選ばれているのは、たんに彼が十九世紀末、つまり映画の創世記を生きた画家であったという理由からだと思われる。だからこの映画の裏の(真の)主題はクリムトではなくメリエスなのだと思う。(この映画では、クリムトの絵画や、クリムトの生涯などほとんど問題とされていない。)
映画にはリュミエール的な側面とメリエス的な側面があるとはよく言われる。リュミエールが現実を写すスナップショット的な映画なら、メリエスは模型やトリックなどを駆使した夢幻的な映像だ、と。しかし、リュミエールにもメリエスにも欠けていたものが「物語」で、1896年から映画興行を始めて大きな成功を得たメリエスだが、しかし1900年代にはいると既に、パテ、ゴーモンといった映画資本がロマンチックな内容の「物語」をもつ映画を製作しはじめ、それが主流となって、メリエスは急速に没落する。(もともと奇術師だったメリエスにとって、映画は奇術的な興行の延長のものだった。)当初、動く写真として、人々をもっぱら視覚的に驚かせてきた映画が、「物語」を積極的に語り始める。ラウル・ルイスが示そうとしているのは、映画が「物語」を得ることで失ってしまったものを未だ持っていた時代の「映画」のもつ力なのではないかと思う。それが成功しているかどうかは別だけど。