東京都美術館のモネ展の注目すべきところは、「印象、日の出」でも「睡蓮」でもなく、白内障に苦しめられていた最晩年の作品をまとめて観られるところにあると思う。作品を観る限り、この時期、モネは色のこまかい違いを見ることができなくなっているように思う。それによって失われたものが大きいのは当然として、失われなかったものもある。失われたものがあることで、失われなかったものの存在が前面に出てきている。これらの作品を観ることで、画家という「絵を描く機械」の作動について、あるいは絵画における「眼」以外の要素について、いろいろと感じるものがあった。
この時期のモネの作品は、確かにある程度は抽象表現主義やそれ以降の絵画を先取りしているところがあると言えないことはないが、それは美術史的な配置として――時代を先取りしていた的に――考察されるのではなく、絵を描く機械のメカニズム上の問題として考察されるべきではないかと思う。セザンヌが皮肉を込めて絶賛した「素晴らしい眼」が後退した時、絵を描く機械の作動はどう変化するのか、と。
(展覧会を観たのは今日ではない。今日、この展覧会についての原稿を書いていたので、このようなことを日記に書いた。)
モネの視力が手術によってある程度は回復し、回復後にオランジェリーに収蔵された「大装飾画」の制作をつづけたのだということを、展覧会の図録でいまさら知った。「最晩年の作品」と言われるものが最後ではなく、死の前に画家として復活したわけだ。視力回復後に、白内障期に描かれた絵――よく見えなかったからこそ描けた、あるいは描いてしまった――を観て、モネがどんなことを感じ、考えたのかを想像する。
●明日は「百年」での展示の搬入。制作を口実に後回しにしていたいろいろなことがここ数日で一挙に降りかかってきたので、結局、事前に現場へ行って展示のイメージを練ることができなかった(昨日か今日か、どちらかで行けると思ったのだが……)。