モネの「舟遊び」とか

●ここ数日、なかなか上手くいかない作品と格闘したり(かすってはいるのだけど、なかなかジャストミートにまでいかない)、梅雨にはいったのに良く晴れた強い日射し(多分、一年のうちで最も日射しが強い時期だろう)のもとを散歩したりしている間に、ずっと頭に浮かんでいたのは、モネの「舟遊び」という絵のことだった。(この絵は、今やっているモネ展に展示されているし、普段は上野の西洋美術館で、松方コレクションとして、ほぼ常設されている。)この絵は、モネの、実際に観た事のある作品のなかでは一番好きといってもよい作品で、着飾ってボートに乗っている二人のブルジョア風の女性と水面に写ったその反映が、深くて暗い青紫の調子で描かれている。この絵の「暗さ」は、強い日射しの下に散在的にあるもの、日射しのネガのようなもので、この「暗さ」をみると、あまりに眩しくて正視出来ないような強い日射しを感じる。光の裏側にある暗さ、とか言うとちょっと文学的な表現になってしまうが、ここには文学的な含みはまったくなくて、ほぼ網膜的な意味でだ。絵の具に白を多く含ませたパステルカラーみたいな調子で光を追いかけているモネの目は、その光と同時に常にこの「暗さ」を見ていたのだろうということが、高いテンションで伝わってくる。この暗さは、光のなかで(あるいは粘度の高い絵の具の「練り」のなかで)とろけてしまうようなルーアンの大聖堂や積み藁の連作と常に共にありながら表裏の関係をなしているように思われる。(晩年の睡蓮の連作は、この裏表を、同一画面上に統合しようとしているようにみえる。しかし、睡蓮の連作が途方もなく拡張し、増殖してゆくのは、その統合が「作品単体」としては決して成功しないからだと思われる。)
ぼくには、「舟遊び」には、「失明」と「死」の恐怖が描かれているように感じられる。勿論、モネが意識的に、この絵は「失明と死の恐怖」を主題にしよう、と思って描いたということではない。(そのような意味での絵画の主題に、ぼくはほとんど興味がない。)モネはたんに、着飾った女の子が舟に乗っているところと、その水面の反映を描きたかっただけだろう。しかしそれを描いているうちに、光と共に常に見えていた「見えていないもの」としての暗さが浮上し、それが刻み付けられてしまったのだろう。(モネにとって「水面」が非常に重要なモチーフなのは、たんに光の戯れの場だったり、三次元を二次元化する反映の場だったりするだけではなく、強い光から、そこに潜在的に含まれている「暗さ」を引き出してしまう物質としてあったからだと思う。)強い光は、常にそれと拮抗するだけの潜在的な暗さによって、光として見えるものになる。(繰り返すが、これは文学的な比喩ではなくて、網膜的な仕組みに関することがらだ。)強い光を見ている時は、同時に強い(深い)暗さを感じているはずなのだが、しかしそれは意識はされない。その意識されない暗さが、絵を描くという行為(技術)を媒介とすることで、ぬっ、と表面に現れている。これはたんにネガとポジの反転ではなく、ポジからネガがじわっと「染み出してくる」ような、異様な、不気味な感覚を、その絵を観る者に呼び覚ます。「見ている」のに「見えていない」もの(これは、ヴェールに隠された深さとか真実とかいうものではなく、表面の裏側にぴったり貼り付いて、それど同時にあるからこそ、「見えない」ものなのだ)の現れというこの特異な「感覚」そのものが、身体的な存在である我々が常に直面しつつも抑圧している死の恐怖(あるいは、絵を「見ている」我々が常に直面しつつも抑圧している失明への恐怖)をじわじわと呼び覚ますような、それらの隠喩として作用するのではないかと思う。(「舟遊び」の青紫の暗い深さは、視線を吸い取って「見る」ことを無効にしてしまうような深さなのだと感じる。)
モネが偉大だとしたら、たんに印象派的な光の戯れが「豊か」だからではなくて、見ることを徹底することで「見えるもの」を突き抜けてしまうからだろう。だからモネの絵は、描かれた対象はほとんど消えてしまって、見るというメカニズムと描くというメカニズムそのものが浮上してくる。しかしそれは、一般的な「見ること」や「描くこと」ではなくて、モネというひとつの特異な身体における、それらなのだ。だからモネの絵を見る時、「私」は、その何割かがモネになる(ということが強要される)、のではないだろうか。