制作が、ようやくいい感じになってきた

●制作が、ようやくいい感じになってきた。やはり、いい感じになってくると作品からすっと離れられる。
制作している間は、ずっと自分の作品を観ているので、どうしても目が慣れてしまう。目というのは、基本的に「見えているものを受け入れる」感覚器官だろう。人は、目で「見えて」いれば、それはそこに存在するのだということを、ほとんどそのまま信じてしまうように出来ている。物音がした方角へ顔を向けて見て確かめる、とかいうように、「見える」ものは「有る(在る)」ものだということに(有ることを最終的に確認するものだということに)、とりあえずはなっている。(目で見えた物を、手で「触って」確かめるという時には、ただそれが「有る」という以上の何かが探られているか、そうでなければ、その人がよほど自らの判断に対する不安を強いられているような状況にあるということだろう。)だから制作をつづけていると、作品の状態をけっして「良い」とは思っていなくても、(それが出来上がりつつある過程の全てを)ずっと長く観ているので「まあ、こんなものか」と受け入れてしまいがちだ。つまり、それがそうなってゆく過程をずっと眺めていて見慣れているものに対して、目は「否」という判断を下し難い。
だから制作中は、手元にある過去に自分がつくった割合自信のある作品と並べてみたり、上下を逆さにしたり、鏡に映したりデジカメで撮ってみたり、アトリエのなかで置く場所を移動してみたり、一旦外に出かけて、帰って来た時の第一印象を確かめてみたりして、目の「慣れ」をなんとか外して、新鮮に見えるように努力する。(つまり、はじめて出会ったかのような出会いを擬装する。)しかし、そんなことをしている時、実は作品が「良くない」状態であること(少なくともどこか「違う」ということ)は本当は分っているのだ。でも、それはあまり認めたくないことだから、もしかしたら「良い」んじゃないかという期待(スケベ心)からそうしているに過ぎない。実際、制作がうまく進んでいる時は、いままで挙げたことをほとんどしないままで描きすすめられる。上手くいっていないと分っているからこそ、これが「ダメだ」という踏ん切りをつけるために、これらの行為は行われるのだった。
(制作が割合とうまく進んでいる時に、見ることの「慣れ」に言い包められてしまわないのは、常に作品が「動いている」から、その都度新鮮なものとしてそれを見ているということと、良い状態の作品は、たとえ制作の途中であっても、見る者に見る度に常に「新鮮さ」を与えるようになっているからだろう。)
長い時間かけて制作中の作品を眺めるのは、(善し悪しを判断するためというより)うまくいっていない状態から「どうやって立て直すか」というその糸口を掴むためだろう。しかし、状態を好転させるための糸口を探る「見る」が、いつのまにか「それで良いのだ」と自らを欺いて言い包め、違和感を押しつぶすために「見慣れる」という風になってしまいがちだ。だから、見ることは常に、純粋な視覚的経験としてではなく、ある動きや行為や関心の移動のなかで、それらと連携しながらあらわれる「見る」でないと、それはすぐに「慣れ」に流れる。
●制作中の作品の善し悪しを決める基準は、制作の前にあるわけではない。だから製作中の作品の判断は、「なんか違う」「なんかいい感じ」「バタバタしている」「決まった」「ズレてきた」「罠にはまってしまった」「スカスカだ」「充実してきた」みたいな言い方でしか出来ない。だがそれは、判断が曖昧な根拠に依っているだからではなく、逆に、あらゆる要素の絡み合いを同時に捉える時に、一つ一つの要素や問題点を箇条書きのように並べ立ててチェックするというようなやり方では厳密には掴めないからだ。目が、慣れによって人を丸め込むのと同様に、言葉も、どうとでも言えることによって人を言い包める。いや、言語による分節が揺るぎなく正確であったとしても、言葉は多くのことがらを同時に問題にすることは困難だ。
作品を自分から引き離すために、外側から客観視するために、自分が無意識にしたことを事後的に把握するために、言葉を使うことはきわめて重要だと思う。でも、作品をつくる前に、これからつくろうとするものについて言葉で捉えることは避けたい。言葉はとても強く人を縛るから、ちらっと思い浮かべた「上手い言い回し」だけでも、それに強くひっぱられてしまう。素朴な言い方になってしまうが、作品を判断する最終的な基準は自分の感覚しかない。これは別に、自分の感覚こそが偉い、それが一番大切だ、あるいは感覚に自信がある、それは揺るぎないものだ、と言っているのではない。それとは逆に、まったくつまらない、取るに足らない、きわめて貧しい、あやふやな、信頼出来ない、ありふれた、あるいは逆にズレまくった、ものでしかないだろう「私の感覚」以外に、頼るべき依りどころが何もないという「覚悟」が(それ以外の言い訳に逃げない「覚悟」が)、作品をつくるには必要だということだ。(作品をつくる時に大切なのは、自分の作品に対する他人の言葉を一旦、完全に忘れることだ。制作の途中で、自分の作品を評価してくれるかも知れない誰かの顔を、一瞬でも思い出してしまうと、判断が甘くなってしまう。)確かに、絵画には歴史があり、技術の体系があり、それを受容する社会(制度)があり、それは言葉と同じくらいに他者のもの(私の外側にあるもの)だ。だいいち、キャンバスも絵の具もぼくが発明したわけではなく、既にあるものだ。それらは、制作の上で助けにもなれば縛りにもなるが、それらの前提を一旦受け入れなければ「私」は決して制作出来ないだろう。(だからぼくの絵は、既にある何がしかの絵に常に似ているだろう。)しかし、それらを使って(そこから出発して)何ものかを組み立て、突き詰めてゆく時の根拠は、結局は「私」がそれを「そのように」組み立てたいのだ、ということ以外にはないと思う。突き詰めてゆけばゆくほど、「私の感覚がそれ以外にないと言っているのだ」という以上の根拠はなくなってしまう。ある状態を良いとするのか違うとするのかの判断について、最終的に責任をとることが出来るのは「私の感覚」でしかない。(そして「私の感覚」に対する判断は、最後のところで他者にゆだねるしかない。)そこのシビアな部分を、言葉や理論や他者や政治や普遍性や共通感覚や期待される共感や期待される評価などに「預けて(逃げて)」いる作品(それらのものに前もって根拠を保証してもらおうとしている作品は)は、どうしてもヌルいものになってしまうように思う。
(繰り返すが、それは決して「私が一番大事」とかいうことではなく、それとは全く逆のことだと思う。その時の「私」は、世界の多様性のなかで無数にあり得る可能性の、一つのサンプルでしかないからだ。そこでの「私」とは、一つのサンプルでしかないことの限定性をわきまえつつ、持ち得る可能性を出来る限りに突き詰めようと努力しているに過ぎない。)
●上記のことがらは、あくまで作品をつくる時(作品が出来る前)のことであって、例え自分の作品であっても、「出来上がったものを観る」という時は、また違ったことになってくるわけなのだが。(しかし、このような「事前」と「事後」との解消し難いズレというものこそが、「言葉」による効果なのかもしれないとも思うのだが。)