●作品をつくる、制作するということは、表現やコミュニケーションに還元されない。モノをつくる動機には、何かを表現したいということだけでなく「モノをつくりたい」というのがあると思う。
要するに、何かと何かを繋ぎ合わせたり、混ぜ合わせたり、切り取ったり、形をいじったりして、そこから別の何ものかが立ち上がってくる、ということをしたい。自分と、自分以外の何かが相互作用することで、別様の何かが自分の手元から生まれるという経験をしたい。そして、その別様な何かが生まれた時、自分もまた、少し別様のものに変化しているということを経験したい。
例えば文章を書くことだって、何かを伝えたいという動機があるだけではなく、言葉そのものや、あるいは物語や意味や概念や論理の、面白い組み合わせや形、美しい組み合わせや形をつくりたい、という動機がまず最初にあるのではないか。
勿論、そのようにしてつくられたものを、他人に理解してほしいし、面白がってほしいという欲望はある。この文脈でこれは無しだろうとか、この精度では他人を説得できないとか、そのような判断もある。この場面でこれは通るのか通らないのか、という判断も重要だろう。でも、そのようなものは後から必然的についてくるものではないか。
作品は、表現のためにあるのではなく、上手くいった作品は、結果として何かを表現する。自分がいて、油絵具があって、そこから何が出てくるのか。自分がいて、日本語があって、そこから何が出てくるのか。出来ることならそこから、自分が面白がれる、自分を驚かせることのできる、何かがでてきてほしい。勿論それは、他人をも面白がらせ、驚かせられるものであることが望ましい。
正確な地図を描いて、足りないものをみつけそこを狙って意識的につくることや、表現の効果を最大限に計算してつくることを否定しているのではない。それは重要だし、自分にはそれが足りな過ぎるという自覚もある。
ただ、作品というものが、はじめから「表現のためのもの」であることが前提になってしまうと、なにより面白くないし、苦しくなってくるのではないか。
モノをつくることの目的はモノをつくることだ、というのがなければ「制作」が楽しくなくなる。これが、「芸術のための芸術」のような自己目的化ではないことを示すために、モノをつくることの目的は、何か新しいモノをつくることだ、としてもいいかもしれない。
新しいといっても、特に斬新であるとか、そういうことでなくてもいい。モノをつくる目的は、とにかく何か別のモノをつくることだ、と。