●『オープンダイアローグとは何か』(斎藤環)をパラパラと読んでいて、これって「ワールドカフェ」にすごく感じが似ているなあと思った。斎藤環はオープンダイアローグについて、目的(主体)はコミュニケーションそのものであって、そこに参加する人はコミュニケーションのための環境であるという言い方で、オートポイエーシスを用いて説明していた。
(ぼくは去年くらいから、ワールドカフェの手法を用いた実験に何度か参加している。)
ワールドカフェの場合は、定期的に人が変わって、その場に文脈だけが存続して議論が積み重なるのに対して、オープンダイアローグにおいては、常に同じメンバーに固定されることで、ある安定性を得るという点は真逆ではあるけど(オープンダイアローグは「治療」であり、ワールドカフェは「会議」なので、目的が異なるわけだが、にもかかわらず、そこで「起こる」ことは結局同じなのではないか)。
複数の人たちによって、何かを考え出したり、生み出したりしようとすることは、つまり対話的であろうとすることは、討論、競争、折衝、政治などとは根本的に別のことだ、ということだと思う。政治的な緊張が高い場面では、誰もが自身の立ち位置を明確にし、誰もがその位置からの発言を強いられるので、議論は闘争や折衝となり、その環境では「対話」は可能ではなくなる。つまり対話は、政治的には無能なものなのだ。
(いや、シビアな政治的な対立がある場面でも、相手に対する敬意があれば対話は可能なのかもしれないが。)
おそらく、この世界から競争や折衝や政治がなくなることはないと思うのだけど、少なくとも、何か新しいことを考え出したり生み出したりしようとする場においては、それらは一時的に停止されなければならない、そのような場が意識的につくられなければならない、のだと思う。
(多くの人にとって「議論」のイメージは、頭の良い奴、声のデカい奴、前に出たがる奴、口の上手い奴がごり押しをして満足するだけで、言いたいことも言えないもやもやのうちに終わるものというイメージなのではないか。多くの人にとって、自分の持っている疑問や違和感は、自分でもうまく言語化できないものであり、しかも、はじめから抗争的な空気のなかでそれを表現するのはかなりの覚悟が必要であり、極めて困難だ。根に持つような奴に下手に反論すると後で面倒だ――発言はどうしても人間関係と絡まる――ということもある。だから空気に流されるしかない。しかし、その上手く言えない違和感のなかに、その後大きく発展し得る種があるかもしれず、あるいは別の人のヒントになる何かがあるかもしれない。それは、たとえ下手な、不十分な言い方であっても言ってもらう方が「全体にとっての利益」になる、少なくともそうなる可能性が高い。しかしディベートのような場では、不用意な発言は恰好の攻撃材料になってしまうから禁じられる。ならば、「ちゃんと自己主張できる人になりなさい」、「きちんと主張をまとめてから発言しなさい」、「ディベートの技術を磨きなさい」と言うよりも――喋り過ぎる人を抑制しつつ――気の弱い人でもポロッと言いたいことが口から出てしまうような空気をつくるやり方を考える方が、「多くの人にとって利益」になる。ディベートの技術に長けた奴が常に勝ってしまうという状態よりも、多くの意見を引き出せる方が、全体にとってずっと理にかなっている。)
(ワールドカフェで「否定的な意見」が禁止されるのは――オープンダイアローグでも否定的な意見は禁じられているという――「みんな一緒という空気」をつくるためではなく、「違っていても大丈夫という空気」をつくるためであり、違ったままで――結論や態度を保留したままで――それらが上手いこと相互作用し易い状態を保つためのものと思われる。)
●以下、「WORLD CAFÉ.NET」からの引用。
http://world-cafe.net/about-wc.html
《本物のカフェのようにリラックスした雰囲気の中で、テーマに集中した対話を行います。》
《自分の意見を否定されず、尊重されるという安全な場で、相手の意見を聞き、つながりを意識しながら自分の意見を伝えることにより生まれる場の一体感を味わえます。》
《メンバーの組み合わせを変えながら、4〜5人単位の小グループで話し合いを続けることにより、あたかも参加者全員が話し合っているような効果が得られます。》
《参加者数は12人から、1,000人以上でも実施可能です。》
●個々の場面では常に4、5人で話しているだけなのに、全体としては千人以上での対話も可能というのもとても興味深い。