●引用、メモ。『倫理とは何か』(永井均)より。
この本は、M先生によるオーソドックスな倫理学の講義のパートと、それに対して二人の学生と猫のアインジヒトがいちゃもんをつけるパートで出来ている。以下に引用するのは、ルソーとカントに関する講義の後の、学生たちと猫との会話の部分。ルソーの関心が「社会構成的な問題」にではなく「社会改革的な問題」にあった、ということの意味が問われている。
《(…)ルソー的な問題構成では「差別的な社会と差別のない社会ではどちらが正しいあり方をしているか」ということが問題のすべてになってしまう。このとき、こう問うことはもうできないんだ――「もちろん正しいのは差別のない社会だ。さてしかし、なぜ私は差別的であってはいけないのか?」と。ルソーの世界は、まともな人間がこう問うことはありえない世界なのだ。実際、この問いがありえない、無意味な問いだと感じるルソー的な人間は現に存在すると思うよ。逆に、これこそが本物の哲学的問いで、そこにこそ問うべき本質的な問題が隠されている、と感じる人もいるだろう。(…)》
《M先生が挙げていたフェミニズムの例でも同じだね。あの例では、問いは内向きになるから、「なぜ私は真の自由に目覚めなければならないのか、そんなつまらないものに目覚めない自由もまたあるのではないのか?」という形になるね。》
《(…)そういう風に言ったとしても、根本的にルソー的な人間は、その問いそのものを必ず誤読して、社会選択的な問いに変形して理解するんだな。「だれもそんなつまらないものに目覚めなくたっていいじゃないか?」というような問いにね。そうじゃないんだ。「もちろんだれもがその真の自由に目覚めた社会こそがよい社会だと心から思う。さてしかし、なぜ私はそれに目覚めなければならないのか?」という問いこそが問いたい問いなのに(…)》