2019-10-14

RYOZAN PARK巣鴨で、台風で延期になっていた、保坂和志「小説的思考塾 vol.6」。今回のテーマは「樫村晴香の思考」。以下に書くことは、保坂さんが喋ったことの要約とかではないです。

保坂さんは「樫村の思考では、世界を問うことのなかに、世界を問うている自分が常に含まれている」というようなことを言っていた。この前の樫村さんのソロトークでは、メタフィジック(世界とは何か?)オントロジー(~とは何かと問うということそれ自体---問うこととして生じているこの私---とは何なのか?)へと折り返していく、その「折り返しが生じる瞬間」(その時にやってくる嫌な感情)ということについて繰り返し語られていた。

(おそらくこの「折り返す瞬間」は、ニーチェの元に、月夜と蜘蛛の巣と悪魔と共に訪れた永劫回帰の経験とつながっていると思われる。)

たとえば、歴史的にはブッダの時代に「折り返し」が生じていた、と。ブッダには、多くの人を殺した過去をもつ元盗賊である弟子アングリマーラがいた。そしてブッダは、彼のことを、病人の前で、彼は生まれてこの方一度たりとも悪に手を染めたことがない、最も強く善を目指してきた者だ、だから彼はあなたを救うだろう、と紹介する(というか、アングリマーラ自身にそう言わせる)。これに対してアングリマーラははげしく狼狽する。

樫村さんによれば、このブッダの言葉によってアングリマーラは動揺し、彼の頭はフル回転の状態にならざるを得なくなる。そうすると、その状態は相手にも伝わるし、アングリマーラの罪悪感や、それを克服しようという感情も伝わる。そういう状態にすることでアングリマーラのあらゆること---存在---が相手に伝わっていく。ブッダにおいてはそのような状態を生むものが「言葉」なのだ、と。そのような言葉は、世界を分節化しようとする形而上学ではなく、存在論と言えるものだ、と。ブッダはそのように言葉を使うことをはじめた一人だろう、と。

もともとアングリマーラは真理を究めたいと思っていた。そのためには、ありとあらゆる悪を行うことで徹底的な悪をなせば真理に到達するのではないかと考え、盗賊をし、人を殺していた。つまり「世界(真理)とは何か?」という問いをもちそれを探求する者であった。だからこそブッダと出会って彼に転移し、弟子となった。そのような(形而上学的な)アングリマーラに対して、ブッダはまさに存在論的転回を起こさせる。

ここで言われているのはおそらく、形而上学に対する存在論の優位というようなことではなく、「世界とは何か?」という問いが「~とは何かと問うこととは何か?」へと反転する瞬間に起きている「何か」を指し示すことであろう。たとえば樫村さんがモロッコで海を見ていて、波の波動をほとんど完璧に予測できると感じた時、波の波動を「予測している私」もまた(決定論的で予測し得る)世界=波の一部に含まれていると感じること、その瞬間。それを樫村さん風に言えば、「世界(真理)とは何か?」という問いの答えが、「(それを問うている)この私というものは存在しない」という嫌な感触として世界から返ってくる、という経験だということになろう。その時に存在に関する定的な何かが開かれる、と。

おそらく保坂さんにおいては、この感覚は幾分かマイルドな形で現れているのではないか。樫村さんは保坂さんに、「ふつうペットは自己像の反映だが、保坂の場合、猫が世界の基盤として機能している」と言われたそうだ。それはつまり、ニーチェにおいて(月や蜘蛛と共に)悪魔としてあらわれるもの、樫村さんにおいて波の波動としてあらわれるものが、保坂さんにおいては猫としてあらわれるということだ、と考えていいのだろうか。

「世界とは何か?」という問いが、「~とは何か?(世界の内側で)問うということは何なのか?」という問いへと、つまり形而上学存在論へと折り返してくる時、そこに、悪魔や永劫回帰でも、「私は存在しない」という嫌な感じでもなく、「猫」があらわれるというのはどういうことなのだろうか。保坂さんにとっては、猫がいるから、春・夏・秋・冬があり、喜び・怒り・悲しみがあるのだという。「世界とは何か?」が「~とは何か?と問うている私は何か?」へと折り返ることで、(ニーチェや樫村さんにおいて)存在の怪異と共に行動や能動の不能姓が立ち上がるその場所に、愛情を注ぎ奉仕すべきものとしての猫があらわれる時、(これも樫村さんが言っていた)再度選択する行為としての「愛」という出来事が生じているのかもしれない。

遺伝的、動物的、あるいは個人の資質として、ほとんど自動的に決定される「好ましい」という感情があり、それに対して、その決定論的な感情を、意思として改めて引き受け直すということとして「愛」という問題がある、と樫村さんは言っていた。猫という動物の形態や動き、生態などのありようが、とりわけ強く、人に存在論的な問いを誘発する、ということがあるのかもしれないし、個人的資質としても保坂さんはその傾向が強いのかもしれない。だがそれだけでなく、その感情を「愛」として意思をもって再度引き受けることで、猫に対する愛情と奉仕のために行われる具体的な行為が発動されることになる、のではないか。そして、猫への愛情や奉仕のための行為を基盤として、日常や世界への見方が組み立てられ直す時、形而上学から存在論へと折り返してくる地点の近傍に留まりながらも、存在というものの怪異の前にただ立ち尽くすのではなく、生活が可能な能動性が再び定立されるのではないか。

保坂さんの小説において、日常的で鷹揚なトーンが維持されたままで、存在論的な問いを立ち上げることが可能になっているのは、そうしたことがあるからなのかもしれないと思った。

トークのレジュメというか、ハンドアウトに引用されていた中井久夫の言葉が、鋭くも容赦なくて、気になったので調べてみたら、『アリアドネからの糸』という本に収録されている「創造と癒しの序説---創作の生理学に向けて」というテキストだった。ハンドアウトに引用こされていたのは以下の文章。

《創作の全過程は精神分裂病の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。この危機の時期にもっとも危険なのは、広義の権力欲(キリスト教にいう傲慢)である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。 逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない人、持ちつづけえない人は、この時期を通り抜けることができない。》

持っている本をみてみると、この部分の直前には次のようにも書かれている。

()もっとも危険なのは広義の権力欲である。これをもっとも警戒して「野心を完全に軽蔑すること」と明言しているのはポーである。名声を、たとえ死後の名声であっても、求めるならば、すべては空しくなるだけでなく、精神病の危機が待ち構えている(「権力欲なくして妄想なし」とは私の定式である)。》

中井久夫はこのテキストで、創作行為に必須なのは「文体」の獲得であり、それは、「発達性」をもつ大脳よりも、「錬磨」される小脳に刻みつけられることの問題が重要である、みたいなことを書いている。

(…)非常におおまかにいって、大脳皮質は感覚と知覚とに開かれ、認知から経験を経て行動に向かう。それは両側に開かれたシステムであり、たえず外部(および内部発生)の擾乱に曝され、それを濾過し、構成し、再構成し、外部に応答し、その結果をふたたび自らの上にこうむらなければならない。そのために大脳皮質の構成原理は差異性優位である。これに対して小脳(の新皮質)は外界に対して閉ざされ、言語に対しても閉ざされている、盲目的なシステムであり、もっとも「共感しにくい中枢神経部分」である(皮質下の諸システムは身体に開かれ、身体を媒介として接近し「共感」することができる)。》

(…)私の中枢神経系のイマージュは、大脳を馬とし、皮質下とその相互の代表象である身体とに馭者として小脳が打ち乗っている図である。小脳は発達ではなく「錬磨」されるのではあるまいか。(…)おそらく、大脳が創造(最広義である)とそれにともなう擾乱と浪費とを、小脳は熟練と安定と経済とを代表するシステムではあるまいか。では小脳は保守的であって、創造とは無関係であるか。一般に、あるシステムに外力が加わった時にはそれを打ち消す力がシステム内に生じる。これは物理化学の初歩的法則である。大脳皮質に外力が加わった時にこれを熟練によって「消化」し、経済的・効率的とすることによって、システムの変化を円滑かつ無害にしているといえまいか。この私だけの「脳神話」はともかく、創造が癒しになるためには、熟練によって釣り合わされることが望ましい。》

●そして、いわゆる「作家」に対して手厳しいというか、容赦ない感じ。

《一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となるよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。

一般に四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には、読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。》

●さらに容赦ないと思うのは、この「四つの軌道」でもっとも高く評価されているのが「沈黙」であるということだ。たとえば、普通はポジティブに評価されるであろう「絶えざる実験」ですら、以下のように書かれる。

(…)マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験をすることを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。》

《第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。》