2019-10-15

●引用、メモ。グルーヴについて。『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』(山田陽一)、第二章「グルーヴィーな身体」より。

●グルーヴ、ゲシュタルト、パルス。

(ヴィージェイ・)アイヤーによると、グルーヴにもとづく音楽の特徴は、規則的で、実質的には等間隔で生じるパルスにある。いいかえるならば、グルーヴとは、音楽的なパフォーマンスにおいて規則的なパルスの知覚を生みだす音楽的要素ということになる。そして、この規則的なパルスは、グルーヴのコンテクストにおいてしばしば数ミリセカンドのレベルで微妙に変化させられる。アイヤーはその変化を「マイクロタイミング microtiming」とよび、そうした微細な尺度でのリズムの表出の仕方が、音楽にとって、たとえば音質や音高や音の大きさと同じくらい重要なパラメーターになると指摘する》。

《アイヤーが示しているのが、非常に高い技量をもつジャズ・ドラマーが裏拍を打奏したとき、それをふくむパルスが、しばしば微妙な偏りあるいは非対称性を示すという事実である。つまり、バスドラムが強拍を正確に打奏した場合、次につづくスネアドラムの裏拍は、バスドラムによる二つの連続するパルスのあいだの中間点よりごくわずかに「遅く」演奏されることが非常に多いというのである。(…)熟達したミュージシャンや聴き手であれば、そうした微妙な遅れをともなうドラム演奏について、「リラックスしている」とか「ゆったりした」など---つまりグルーヴィーだ---と肯定的な評価をあたえるという》。

《かれ(タイガー・ロホルト)によると、音楽のニュアンスとは、表現上の微妙なヴァリエーションとも言い換えることができ、音楽作品にではなく、パフォーマンスに属する特性である。たとえば、同じA音としてカテゴライズされる二つの音高のうち、一方が他方よりも高い(とはいえ、A#音とカテゴライズされるほど高くはない)場合、また同じ八分音符と分類される二つの音価のうち、一方が他方より長く持続する(とはいえ四分音符と分類されるほど長くはない)場合、そして、多くの種類があるが、そのすべてを適切に区別することのできないギターの歪んだ音質などが、音楽のニュアンスの例である。》

《この音楽のニュアンスこそ、グルーヴ現象の基礎になっているとロホルトは指摘する。つまり、グルーヴは、マイクロタイミングというニュアンスに基礎をおく「知覚のゲシュタルト」であり、それは、ある特定のやり方でニュアンスを知覚する経験のなかで生じる。(…)グルーヴが音楽経験のなかで実感されるためには、音楽のニュアンスの知覚経験---それもある決まったやり方で、つまり、グルーヴを引き起こすものとしてニュアンスを聴くこと---が何よりも必要とされているのである》。

《ロホルトによると、ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥー」には二種類の録音があり、両者は演奏のタイミングのニュアンスに大きな違いがあるという。最初の録音では、リンゴ・スターがドラムを叩き、二回目はアンディ・ホワイトが担当した。この曲のリズム・パターンは「ターン・タッタ・ターン・タッタ」という四拍子のスウィング・リズムにもとづいているが、リンゴの演奏ではほぼ常に、二拍目と四拍目の連続する八分音符(「タッタ」:正確には真ん中が八分休符となる三連符)のうち、(休符のあとの)二番目の八分音符がわずかに遅めに打奏され、ホワイトの演奏では逆に、同じ音符がわずかに早めに叩かれている。》

《ロホルトは、両者の違いがもつ音楽的意味が、いずれもリズムを「もたれかかった」ように感じさせる点にあると指摘する。リンゴが二つ目の八分音符をほんの少し遅めに演奏すると、リズムが後ろにもたれかかって引っ張られるように感じられるし、ホワイトが同じ音符をほんの少しは早めに叩くと、前にもたれかかって押されるように感じられる。(…)ロホルトは、こうした「もたれかかりの感覚」を理解する必要があり、そのためには、ドラマーたちの打奏タイミングのニュアンスを適切に知覚するやりかたを理解しなければならないと主張する》。

《スウィング・グルーヴの経験における二番目の八分音符の働きかたは微妙であるとはいえ、その位置はリズム全体に影響をおよぼす。(…)ロホルトは、両義的な知覚刺激の例は、ゲシュタルト現象それ自体であり、そのなかの両義的な要素だと指摘する。》

《両義的な解釈を許すゲシュタルトにおいては、二つの解釈の両方を同時に知覚することはできない。たとえば、見方によってアヒルに見えたりウサギに見えたりする「アヒル/ウサギ」の知覚のゲシュタルトにおいては、アヒルとウサギを同時に見ることはできない(…)「アヒル/ウサギ」の場合、注意をウサギの耳の部分に向け、それをウサギの耳として見るとき、アヒルの知覚への移動は妨げられる。(…)ゲシュタルトの移動が生じるためには、ウサギの一部が注意の対象であってはならず、ある意味で、ウサギのイメージは知覚の背後に退かなければならない。》

(…)ゲシュタルトの移動が生じるために、ウサギのイメージが背景に退かなければならないのと同様に、グルーヴの「もたれかかり」というゲシュタルトが知覚されるためには、二番目の八分音符は背景に退かなければならない。逆にいうと、二番目の八分音符に注意を向け、それを八分音符として聴くことは、もたれかかったグルーヴを知覚するのを妨げる。》

《ロホルトが主張しているもう一つの特定の知覚の仕方は、八分音符をパルスと関連づけて聴くことに関わっている。スウィング・リズムのパルスがもつ規則性は、それがずっと続くだろうという期待を生む。もし注意をあの八分音符だけに向けたなら、それはただ早いと聞こえるか遅いと聞こえるか、あるいは間違っていると聞こえたり、拍子はずれに聞こえたりするにすぎない。だがその八分音符を、パルスとの関係において「反響するreverberating」もの---すなわち不確かで曖昧で、それがパルスに影響をおよぼす場合にのみ経験のなかに存在するもの---として知覚するならば、パルスへの期待(すなわち規則的なタイミングへの期待)にたいして押したり引いたりするという特性、いいかえるならば一種の不均衡や緊張が生じる。もたれかかったグルーヴが経験のなかにあらわれるのは、まさにこのときである。つまりスウィング・グルーヴは、パルスの規則性によって引き起こされた期待を、八分音符が妨害することで生じる緊張の結果なのである》。

●共有されたずれのフィーリング、演奏のゲシュタルト的全体性、

《イギリスの音楽学者マーク・ドフマンは、比較的最近の議論のなかで、グルーヴをミュージシャンによって「共有されたタイミングの身体的経験」として捉えようとしている。かれによると、グルーヴは基本的にミュージシャンたちの身体の「あいだ」で生じるものであり、その意味で、それは相関的な身体現象である》。

《グルーヴは音楽的時間の共有に関わっているが、ある音楽をグルーヴィーだと感じるためには、演奏者のタイミングが完全に一致したり、メトロノームのように等時間隔的である必要はない。演奏者たちはよく、グルーヴを伸縮性のある経験と感じており、重要なのは、演奏者のあいだで深い協調感覚が生じるために、この時間の伸び縮み、すなわちタイミングの微妙なずれにたいするフィーリングが共有されることなのである。》

(…)従来の考えかたによると、グルーヴはリズム・セクションに固有のものであり、グルーヴという「地」のうえでソリストが「図」を演奏するという捉え方であった。だが、ドフマンによると、今日のジャズ演奏において、演奏者間の相互作用のありかたは、地と図というはっきりした対比を否定している。つまり、ソリストは主導権を保ってはいるが、現在の演奏におけるリズム・セクションとソリストの関係は、地と図モデルが示す状態よりもはるかに微妙で複雑である。また、グルーヴしているバンドの音楽は、ひとつのゲシュタルト的全体として経験される。グルーヴの産出においては、ベースとドラムが中心として注目されるかもしれないが、この全体的な音楽経験からソリストの演奏やベーシストの演奏だけを取り出すことはできない。グルーヴとは、集団的で間主観的な発現特性なのである》。