青山ブックセンター本店で、保坂和志さん、樫村晴香さんとトークショー。といっても、ぼくは事実上壇上の観客と化していて、いくつかの質問を樫村さんにしただけなのだが。この場にいた人すべてが、(ぼくが96年にはじめて「ドゥルーズのどこが間違っているか?」を読んだ時と同じような)半端ではないショックを受けたのではないかと思う。樫村さんのテキストにも話にも共通してある、金属質の感触の強い力と圧倒的に凝縮された密度をもった言葉が、一人でも多くの人に響けばいいと思う。
ニーチェの生きた時代においては、記述は常に現実そのもの(世界そのもの)よりも貧しく、縮減されたものでしかなかったのだが(だからこそニーチェは因果関係や能動性を批判できたのだが)、ここ、2、30年の爆発的な科学とテクノロジー(と、あと多分資本主義)の発展によってその関係が反転してしまって、より密度と領域が増大した記述によって世界が梱包され、むしろ「記述のなかに世界が含まれる」というのがリアルの感触となって、あらゆるものごとが記述のもとに晒され(ということはつまり「無意識」が記述の形になって外部化されて露わになるということだと思うのだが)、そうなると転移というものが発動しなくなり、能動性という感覚が(リアルに)不能になってしまうので、そのような時代に一体「芸術」になにができるのかというシリアスな感情を(ニーチェの話で終わる)保坂さんの本を読んで感じた、という樫村さんの話に対して、保坂さんが、でもそれってあんまり実感ないんだよね、ウチには猫がいるし、この猫は情報化されてないから、猫がいれば大丈夫、という話をして、そこに樫村さんが、猫だったらそうかもしれないけど、わたしは前にライオンを飼おうとしたことがあって、ライオンだとその習性を情報として完璧に把握しておかないと不安だから、専門家に詳しく話しを聞いたことがある、と返した、その「ライオンを飼おうと思った」ところに、ものすごく「樫村晴香」を感じた。
現実世界(あるいは無意識)よりも濃厚で広大なものとなった記述(知、分節)によって、いわば記述という檻に閉ざされたかのような感触で生きることが強いられる時に、「ライオンを飼う」ということによって、おそらく「記述(認識、情報)の正確さ」と「死への不安」とを拮抗させて、生の現場にある一定の表情と強度を生み出そうとする、この金属的な感触こそが、ぼくがテキストやご本人からいつも感じている「樫村晴香」なのだった。
そこでぼくは、それは、転移と能動性(および自由意思)が失われた後にも残るであろう「外傷」をどのように処理すれば良いのかというような話ですか、と聞いてみたのだが、樫村さんは、その時に外傷は、いわゆる神経症的な外傷ではなくなって、「世界全体が(世界そのものが)外傷となる」だろうということを言って、ぼくはその言い方に感覚的にすごく納得がいって、だとすれば、樫村さんの言う、記述によって世界が梱包されてしまうような世界のありようは、決して悲観敵なものではなく、むしろ非常に楽しげな、魅惑的なものとも思われる(しかしこの楽しさの裏には、常に分裂病的な、切迫した刺々しさが貼り付いているのだが)。さらに言えば、樫村さんのこのような世界のイメージは(イメージという言い方は的確ではないと、樫村さんなら言うだろうが)、世界そのものの客観的な記述であると同時に、樫村晴香という人を表現するものでもあるように思えた。
樫村さんは、保坂さんの本から三つの風景を取り出して、それぞれをコスタリカ、タイ、アフリカ的な風景として分類した。でもこれは、風景の三つのありようであると同時に、主体の三つのありようのようにも語られていた。この話を正確に再現できる自信はなく、ところどころ間違いがあるかもしれないが、忘れてしまう前にメモとしてやってみる(だから以下の記述はあまり信用できません)。
まずフアン・ルルフォの《そこへ子供たちの叫び声が飛び交い、暮れなずむ空の中で青く染まっていくように感じられた》という一節から。この感じに近いのがコスタリカの風景で、そこでは、太平洋と大西洋の両方から風がやってくるので雲の流れが複雑で、光がとても美しく、色彩が実在としてそこにあるように感じられる。この感じを文学として捉えているのがエミリー・ディキンソンで、彼女の詩には、比喩や表象としてではなく、色と言葉(文字)が同格のものとしてあらわれ、しかもそれがいきなり世界のなかから直接的に発見される(このあたりの話は、打ち上げの時に樫村さんからもう少し詳しく聞いたのだが、今、手元にディキンソンのテキストがないので、これ以上は突っ込んで書けないのだが、例えば《世界が落ちていた》と書かれる時、「世界」は表象ではなく、まさに「世界」という文字が、直接世界のなかに落ちていて、それが私によって初めて発見される)。この感触は紫式部にもあり、女性作家から感じられることが多いヒステリー的な感触と結びつく。(関係ないけど、ぼくは最近、自分のヒステリー的な側面を時々感じることがある。)
次にヨーゼフ・ロート。《彼のブロンドの柔らかな口髭は念入りに磨かれて、双頭の鷲や兜の円頂部と同じようにキラキラと光った。口髭までが同じ材料でできているように見えた。ときどき楽しげに音をたてる鞭は、ほとんど笑い声のように聞こえた。》この、金属的な感触に近いのがタイやスリランカの風景で、そこでは中間的なニュアンスがなく、死が日常的な風景から隠されていなくて、生と死はグラデーションがなく断絶しているのだが、同時に死はありふれていて、そのような風景のなかで聞こえてくる金属的な音は、そのまま(意味をもたない)言葉として聞こえて来る(ここで言葉は、文字ではなく音だということが、おそらく重要なのだと思う)。この金属的で尖った感触は分裂病的であり、文学的にはヘルダーリンに近い。付け加えれば、ぼくが樫村さんから感じているのは、このような感触に近い。あと、樫村さんは、ラカンの言う「象徴界」は、けっして構造主義的な差異の体系とか、レヴィ=ストロースみたいな話とは全然違っていて、分裂病者が聞いているような、もっと主体に直接的に結びついた力動で、シニフィアンが別のシニフィアンへと波打つように送り返されて行く、金属音=意味をもたいな言葉の連なりのような感触を強くもつ、というようなこと言っていた。
最後にレリス。《今朝、セマリンが自分のために小さなオウムを買った。》《昼間、ティエモロがセマリンに向かって、彼のオウムは大きくならないだろうし、それを買ったのは金を盗まれたようなものだと言ったものだから、セマリンは今にも泣き出しそうだった。》まず、アフリカでは、光が強く、あらゆるものが直接的で強烈に見えるので、風景というものが成立しにくい。そこで恒常的な風景ではなく、ここで書かれているような鳥のような、小さな対象関係を成立させる「もの」によって主体が一時的に担保される。日本は、あらかじめ最悪の結果が先取りされているようなニヒリズムの文化なので別だが、ヨーロッパでも、女性はちょっとお金があるとすぐに洋服を買い、そしてその買ったものが他人から否定されると、自分自身が否定されたかのように無制限に落ち込む。しかしまたすぐに次の洋服を買うので、その落ち込みはすぐ回復される。そこには男性が、権威を象徴するものとしてナイフや車を購入するのとはまったく異なったモノと主体との関係がある。一定の恒常性をもつ権威や真理や法といった大他者から見られること(超越性)を指向する男性的主体とことなり、女性的主体は目の前にいる他者との関係(目の前にいる他者との関係を表象するモノ---洋服や携帯電話や言葉を返して来るオウム)によって主体をたちあげる。だから、その他者(との関係を表象するモノ)がうまく行かないと主体は破壊されるのだが、そのかわりに次の他者(との関係を表象するモノ)がすぐにやってくる。
そこでぼくは、以前樫村さんから聞いた話---タイにはゲイが多いけど、そこにはグラデーションがあり、どこまで本気でゲイなのか分からない、たんに女性的なイメージと同一化しているだけみたいな人も多い---を思いだして、その女性的な主体の話と関係があるのかということを質問したら、樫村さんは、現代のような、(マッチョな)転移と能動性が困難な時代においては、(一定の恒常性がある)超越的な法や想像的な他者からの視線を意識して組織される主体よりも、ただ、目の前にいる他者(の視線)だけに向かってサーヴィスするという形で主体をたちあげた方が、世界からより多くの快楽を引き出し得る、ということなんじゃないかと答えた。