●都内、某ホテルにて密会。帰国中(来日中?)の樫村晴香さんと、保坂和志さんとお会いする。ホテルの会議室なんていうところははじめてで、時間よりちょっと早めに着いて先に通されたのだが、一人でそこにいて、場違いな感じで、自分がその部屋の何処にどんな風にしていたらよいのかよく分らなくて、窓際に立って、外の、ちょうど明治大学の裏手のにある木々を眺めていたのだが、窓の下に冷房の吹き出し口があって、冷気が直接からだに当たって冷え過ぎてしまうのだった。(ロビーで待っていてもよかったのだが、ホテルのロビーなんてさらに場違いで、どうしていたらよいのか分らない。)
樫村さんから聞いた話で最も刺激的だった話(リュック・ベッソンとダンスの話や、舌切り雀の話)は、残念だけど差し障りがあるのでここに書く事は出来ないのだが、樫村さんの、知性だけでなく、並みはずれた狂気の手触りの一端がうかがえて、とても興奮した。午後二時から十時過ぎまで、あっという間に時間が過ぎて、実は、その後に予定していたこと(レクチャーを聞きにゆく予約をしていた)をすっぽかしてしまう 。この後しばらくは、湯あたりや暑気あたりのような、樫村あたりでうなされる日々を過ごすことになるでしょう。
帰ってすぐ、そこで話題になった、デュラス『ロル・V・ステーンの歓喜』、ヘーゲル精神現象学』、樫山欽四郎ヘーゲル精神現象学の研究』を、「日本の古本屋」で注文する。
●ぼくの本を読んで下さった感想と絡めて、樫村さんが、昔から橋本治のことが理解出来ないと言い、橋本治を好きな人は多いけど、そのどこが面白いのかを納得出来るように説明出来る人はいなくて、古谷さんの本を読んである程度はそういうことかと思ったけど、でも、結局、自分は歴史には興味がないんだ、と言ったことは、とても示唆的なことのように思われた。(おそらく、橋本治が関係を追いつめてゆく感じは、とてもオーソドックスに神経症的なあり様が凝縮されたもので、現実界との間のクッションが希薄で、世界の細部と、回路が直接的に接しているような感じの樫村さんとは、まったく生きる感触が異なるのだろうと思った。)
●保坂さんが、観て来たばかりのマティス展(マティスとボナール)の感想として、マティスの室内を描いた絵で、画面に大きく窓枠とその外の風景が配置される絵のフレーミングと、リンチの映画で、薄暗い廊下の先に部屋の一部が見えるようなフレーミングが似ているのではないかという話をしていて、ぼくの頭のなかではマティスとリンチとの接点がなかなか見いだせなくて戸惑っていると、ぼくも古谷さんもマティスとリンチが好きで観るけど、そこに観ているものは全然違うんだよね、と言って話はそれきりになって、保坂さんの話は割りといつも、そのように、どかっと提示されて、説明抜きでさらっと次に移ってゆくことが多いので、却って、その提示された命題の感触が謎のように刻印されることになる。一方、樫村さんは、その説明が延々と続くうちに、説明を越えたすごいところに辿り着いてしまう感じ。
●前にお会いした時、樫村さんは、今、書いているもの(オイディプス神話に関するもの、小説ですか、と聞いたら、うーん、というよりやはり哲学だね、と言っていた)は、生きている間になんとか完成させたいとは思うけど、それ以外に新たに何かを書こうという気持ちはもうないと言っていたのだが、今日は、最近、ヘーゲルを読み直したら思いのほか面白く(ヘーゲルラカンによって包括されてしまったと思っていたのだが、実は、ラカンよりヘーゲルの方が、主体が、ある認識の閾値を越えた時に内側が外側へとくるっと反転してしまうという感触を、より詳細に、明解に、記述している、と、そして、ヘーゲルこそが、未来が過去の方からやってくるという感触を、明確に掴んでいる、と)、ヘーゲルを中心とした哲学史を書いてみたいというようなことを、ちらっと漏らしていた。これは、樫村晴香を「おとす」絶好のチャンスなのではないか。編集者の方々、この機会に、樫村さんに猛アタックして、なんとか原稿を書いてもらうということは出来ないのでしょうか。「超寡作の人」の新作を待ちわびている人は、決して少なくはないと思うのだけど。