2019-11-04

●RYOZAN PARK巣鴨樫村晴香ソロトーク(二回目)。

今回のトークは特にすごかった。もはや再現不可能だし、要約不可能。

樫村さんのテキストにおける精密な論理構築と硬質な密度とはまた異なる感じで、融通無碍で変幻自在に話題が動いていく。きわめて軽薄な話題が、いきなり深淵へと接続され、引いてしまうほど下世話な話が、詩的な喚起力へと変容しでいき、身辺雑記的エピソードが、そのまま神話的な強度をもつ。充実と停滞の区別がつかず、俗っぽさも気高さも、清も濁も、深さも浅さも、具体性も抽象性も、すべてが混じり合い、あちらから入ったかと思えばこちらへ出てきて、それがまた別の回路へとつながっていく。そして、根底に漂う濃厚な「性」と「悪」の気配。たんなる雑談といえなくもないが、こんなにも複雑に絡み合い、密度があり、強度があり、深度があり、そして毒気の強い雑談を、今まで聞いたことがない。

(以下、トークからぼくの受け取った「印象」の、今ここで頭から取り出せる、ごくわずかな断片であり、正確な再現ではないです。とてもじゃないけど再現不能。)

●最初、保坂さんの『読書実録』第三章〔愛と幻想と現実〕の、ミシェル・レリスから引かれた文章、「さらに深まる空虚を埋め合わせる必要に迫られたとき、私は思弁的議論ではなく、経験の充実をもってこれに向き合おうとしていた」を取り出して、ラカン風に解説してみせる。空虚を、経験の充実で埋めることはできない。空虚は空虚によってしか埋められない。愛とは、自分の持っていないものを用いて相手を救うことであり、そのようにしてしか空虚は埋まらず、おそらく女(愛)-欲望において問題を抱えていたレリスの空虚は埋まらない。ラカンならそう言うだろうが、それは半分しか正しくない、と。空虚があるから欲望が生まれるのではなく、逆に、欲望という(人間を規定している)システム、欲望というOSが、空虚というものを生んでいる。そして、そのような「欲望というOS」が今や終わろうとしているのだ、と。

●この「欲望の消滅」という主題は全体に通底していたかもしれないが、とはいえ、これは話のはじまりに過ぎない。『読書実録』の〔愛と幻想と現実〕から触発されて、レリスの話、ボクサー犬の話、崖の話と、話題は移行し、移行した先で、話題の細部が拡大する。

特に犬の話が印象に残った。本当はライオンを飼いたいと思っていた。ライオンは敷地に金網をはっても逃げてしまうから、金網に電流を流さなければならない。ライオンを飼っている人を実際に訪ねた。ライオンはネコ科の動物としては犬に近く、子供の頃から飼っていれば人に懐くしとても頭がいい。しかし、ライオン同士の喧嘩が始まると非常に獰猛であり、人間には制御できない。ライオンは立ち上がるととても大きく、力もけた違いで、強い恐怖を感じた。ライオンを飼うことはあきらめた。

ボクサー犬は特異な犬種だ。普通、犬は、知らない人間が近づくとテリトリーを守るために吠えて威嚇するくらいのことしかしない。しかしボクサー犬は、人間の男があらわれると、その様子を伺うように近寄ってくる。そして、男の近くでしばらく彼を観察している。だが、あるタイミングで、いきなり思い切り強く噛みつく。普段は家に他人を入れないようにしているが、飲料水のタンクを取り替える業者は家に入れざるを得ない。不幸にも、その業者の男がボクサー犬の被害にあって足を負傷した。

ボクサー犬との愛情関係も特異だ。夕方からテラスで飲酒している時、酔いが深まってくると、犬が膝に前脚を置く。払っても、また置く。それを何度も繰り返し、酔いもさらに深まっていくうちに、犬は膝に乗るようになり、しまいに犬は、女性と対面座位で性行するような姿勢で覆い被さってくる。私にとって、犬が女の隠喩なのではなく、女の方が犬の隠喩だとさえいえる。ある時、テラスに不意に彼女(人間)が現れたことがある。すると犬は、まるで禁じられた秘め事が見つかってしてまったかのように、あわてて私から離れ、私はその勢いで転倒してしまった。

犬との愛情関係が前言語出来であるのと同様、本来、人間との関係もまた、前言語的なところで作動しているはずだ。ただ。言語が介在しないと、記憶を時間(順序)として構成することが困難であるようだ。犬の記憶には前後関係がない。

●東アジアにしか存在しない独自の「下品さ」というものがある(たとえば、タイでは下品な人に出会ったことがない、と)。それは、日本、韓国、中国にしかみられない。ここでいう「下品さ」とは、自分に自信がなく、自分の存在を支える背景的な(隠された・隠喩的な)核のようなものがないので、その都度その都度、自分の存在を過度に誇示する威嚇的態度をパフォーマティブに、表出的に示すことによって自分の存在を支えているようなあり方のことだ、と。

今までに出会った、最も下品さの強度が強かった人は韓国のポン引きだった。街を歩いていると、いかつい男が近寄ってきて、耳元で「メ二ハイリマスヨ」と囁かれた。意味が分からず、「私は韓国語が話せません」と英語で言うと、「日本語ですよ、目に入りますよ」と言った。要するに、「目に入れても痛くないくらいかわいい女の子がいますよ」という意味だ。

(外国の街を一人で歩いている時、下品さをプンプン漂わせたいかつい男から唐突に「メニハイリマスヨ」と囁かれ、それが日本語の「目に入りますよ」という言葉であるということ。この場面になぜかぼくは異様に魅了された。)

ディオゲネスは、奴隷市場で売られるとき、「おまえは何が出来る」と問われ、「おまえたちの主人となることができる」と答えたという。かっこいい。ちょっとラカンっぽいが。

●樫村さんの語りには、樫村さんのテキストにあるのとは異質の、強さがあり深さがあり複雑さがあり運動性がありヤバさがあるように思う。そこには、哲学というよりも小説に近いような細部の感触がある。おそらく樫村さんはそれを良しとはしないだろうと思うのだが、ただ、身辺雑記的なことを書き連ねるだけでも、それが小説として非常に魅力的なものになるのではないかと思った。

(欲望の消滅について、図示的、解説的に語るのではなく、欲望の消滅後について、その具体的な細部や感触を語るのでなければならない、そのためには「実作」である必要がある、できるのならば自分もそれをしたい、というようなことを、樫村さんは言っていたと思う。)