2019-09-16

RYOZAN PARK巣鴨樫村晴香単独トークイベント。現場ではいっさいメモをとらずにひたすら聞いていたので、以下は、記憶を頼りに、ぼくの解釈を交えて書いたもの(正確な、ちゃんとした記録は、おそらくそのうち発表されるでしょう)

●一番偉い哲学者というのは存在しない、ということが言われた。人によって、土地によって様々なやり方で考えられ、そのどれもが強い部分もあり、弱い部分もある。微積分的に考える哲学者もいるし、トポロジカルに考える哲学者もいる。それらを「一番偉い哲学者」として統合することはできない。

●樫村さんの話は、常に具体的な情景、あるいは場面と結びついているように思われる。それは、樫村さん自身によってこの世界のどこかで経験された情景であったり、誰かの著作物や作品のなかにあらわれる場面であったりする。

この場合、具体的な情景(場面)とは何か。まず、とても強い印象を人に与える場面があり、その描写がある。その印象的な描写は、連続的に、そのような情景にかんする(非常に精密で高い解像度を感じさせる)分析・分節へと移行していく。その分析・分節は、その情景にかんする分節化でありながら、抽象度を増していくことで、その限定を越えて、この世界、この宇宙がどのようにあるのかという、そのあり方を示すものとなっていく。しかしここで、具体的な情景が世界を説明するモデルとなるのではなく、情景についての分節化がそのままこの宇宙についての分析と重なってしまうというように、「具体的情景の分節」と「この宇宙への問い」との間にフラクタル的な関係が成り立つような形になっている。

ある特定の情景への分節が、そのまま「この宇宙はどうなっているのか」という問いとフラクタル的に重ね合わされ、情景の描写がそのまま「この宇宙とは何か」という問いとなる。そして、この二つ(描写と分節、情景と世界)がぴったりと重なった時、一つの大きな反転が起こる。「この宇宙とは何か」「この世界はどうなっているのか」という問いが、それを「問うている何か」「何かを問うということそのもの」への問いへと逆流する。「そもそもそれを問うているものはなになのか」「それを問う者とは何なのか」「それを問うものとして発生しているこのこれ---わたし---とは何か」という形で、問いが発生している場所としての「わたし」の方へと、「この情景の印象の強さ」と「世界への問いの重さ」としてあった力と強さが、「問うことへの問い」として、そのまま「わたし」の方へとのしかかってくる。その強烈な逆流による圧迫が起こる場こそが「人間」という「存在」が生じている場所ではないか。

(世界の説明からオントロジーへの反転。)

この反転によって生起する気持ち悪さ、いやな感じ、あるいは恐怖。樫村さんはおそらくこの感じを、ニーチェにおいて繰り返しあらわれる「悪魔」や、月の光や蜘蛛の巣とともにやってくる永劫回帰への認識(繰り返し何度もやってくるものを、何度も忘れ、何度も思い出す)に近いものとして捉えているのではないか。

チュニジアの海岸で海を見ている。フランスやギリシアから海を見ていると、太陽が海の方向にあるので、風景は強烈な色彩としてやってくる。しかし、アフリカの側から海を見ていると、太陽は背後にあって海に射しているので、海は光というより波のさざめきでとしてあり、波動としてはっきりと見えてくる。海水は透明で、海の底の地形も見える。それらが明確に見えるので、海をずっと見ていると、次の波がどのような形を描き、砂浜のどこまで届くのかを正確に予測できるようになってくる。

波は予測した通りにやってきて、予測した通りの形を描き、予測した通りに引いていく。この状態をしばらく経験していると、現在の状態は過去の状態によって完全に決まっており、未来の状態もまた、現在の状態によって完全に決まっているという、「ラプラスの魔」のような決定論が強く想起される。想起されるというか、そのような世界のなかにあることが強く(逃れようもなく)実感される、ということだろう。そしてさらに、その「すべてが決定されている(決定されているすべて)」の中に、今、それを見ている自分も含まれているということが認識される。認識というか、今見ている風景が---ほかのようにではなく---そのようにしか見えないのと同じくらいの確実さで、そのような実感が強要される、という感じではないか。

「あらかじめすべてが決まっている」この宇宙のなかに、「すべてが決まっている」という強烈な実感をもってしまう自分が含まれている。あらかじめすべてが決まっている以上、この実感は強いられたものであり、逃れようもないが、しかしそのような実感が生まれてしまうことの奇妙さ、そのような実感「として」存在してしまっていることの不可解や腑に落ちなさ、そしてそのような実感が---とこかから?風景から?---やってきてしまうことに対する「いやな感じ」。

この「いやな感じ」こそが、ニーチェ永劫回帰に通じるものであり、また、「~とは何か」という問いを立ててしまう(問いを立てざるをえない)存在として、「問うことの元基」としてある人間という奇妙な存在の怪異を感じるほかないのではないか。

(この話を聞きながら、樫村さんの楳図かずお論のとこを想起した。というか、この話を聞いて、楳図論というのはそういうことだったのかと納得できた気がした。)

●この話と、ラカンの海に浮かんだ鰯缶の輝きの話(「見えているもの」そのものが防衛である)や、「オイディプス王」の話(「真理」は目からではなく耳からやってくる)は、やや次元を異にしていると思われる。これらは、存在の元基としての永劫回帰の次元よりは、既に幾分か人間が「人」の形へと構成され、世界が「世界」として構成された---あるいは、されつつある---次元の出来事であるように思われる。

(ラカンと「オイディプス」については、もっとじっくりと詳細な話をしてもらえると大変にうれしい、という願いをもっています。)

ブッダアングリマーラアングリマーラ99人もの人を殺し、その99本の指をつなげて首にかけていたような人物。ブッダアングリマーラに会いに行く。アングリマーラブッダを殺そうとするが、ブッダはゆっくりと身をかわすだけなのに、アングリマーラは決してブッダに追いつくことができない。二人の時間が異なっている。

アングリマーラブッダの弟子となる。ブッダアングリマーラに、重篤な病人に向かって、「私は、この世のどのような悪にも染まっていない、その徳によってあなたは救われるだろう」と言うように命じた、と。

現在の日本の知的な環境では(というか、たんにぼくの興味の範囲では、ということか)、仏教について考えようとする時、参照するのは龍樹であり「華厳経」であることが多いように思われるが、樫村さんは、もっと初期の、ブッダの仏教がおもしろいと言っていた。

●『饗宴』のアガトンについて。アガトンは、美しく、穏やかで、博識で聡明であるが、欲望がない。あるいは、「問うことの元基」としての「いやな感じ」をもたないだろう。樫村さんは、人工知能をそのようなものとして捉えているようだ。そして、将来はそのような---アガトンのような---存在によってあらゆることがらは解析され、実行されるだろう、と。ただ、この部分については時間が押しており、駆け足に語られたもので(ぼくは『饗宴』を読んでいないということもあり)、細かいニュアンスまでは読みとれなかった。

(復習として『饗宴』は読まないと……)