●『対称性人類学』(中沢新一)の最後の方を読みながら、樫村晴香楳図かずお論のことを思い出していた。一神教、国家、資本主義の繁茂する(「一」と「原生的抑圧」の)世界のなかから、対称性無意識の響きを聞き取りそれを増幅しようとする中沢新一と、多神教的、輪廻的な論理が支配する日本のマンガ、アニメ的な環境のなかから、特異な一神教を独力でたちあげた作家として楳図かずおを描き出そうとする樫村晴香は、同じような道を逆向きにたどっているようにも思える。中沢新一は、対称性無意識を称揚しながらも、自身はあくまで非対称的な論理によって書く。あるいは、非対称的な論理の道具立てによって、対称性無意識を説明する。それはおそらく、非対称的論理の支配する「こちら側」の世界から、対称性無意識という「向こう側」へとジャンプする可能性を見ようとする(あるいは、その響きを聞き取ろうとする)からだろう(例えば、ほとんどフロイトを否定するようなことを書きながらなおフロイトに準拠するのは、こちら側の論理によってあちら側を説明するのに必要だからだと思えた)。樫村晴香の楳図論は、いきなり向こう側(対称性無意識)へとジャンプし、向こう側からこちら側(非対称的論理)を眺めるような書き方をしているように思われる(そのような意味で、これ以外の樫村テキストとも少し異質だと思う)。勿論それは、どちらが良いという話ではないが、両方つきあわせてみると、いろいろみえてくるものがあるように思われる(まさにバイロジカルな感じで)。例えば、どちらも精神分析に対するとても強い関心がみられるけど、その関心の方向性が逆向きであるように思われる。以下の引用は樫村晴香の楳図論『Quid ?』より(この部分は、今までもこの日記で何度も引用しているけど、読み返すたびにいろんなことを感じる)。
≪とりわけ重要なのは、人は耳から狼になるのか、目から狼になるのか、口から狼になるのか、鼻から狼になるのか、爪から狼になるのか、ということだ。「マッツェーリは人間であり、狼である」という時、その言葉が耳から入り、考えを支配する力をもつのか。眼前の狼の姿の恐怖と躍動の感覚が、目から入り人間の表皮を突き破るほど大きくなるのか。あるいは子羊の生肉を噛みちぎった時、狼だったことを思い出すのか。さらには血の匂いがそうさせるのか。しかし、てんかんヒステリー的に剥奪されるのでなく、とりあえず自らの意思において変身が可能になるには、目から入る姿が、恐怖を凌駕する躍動、恐怖そのものである躍動を与えることが必要だ。その躍動、快楽が、耳から入る言葉と共犯する時、変身は輪廻に昇華する。より正確には、躍動が眼前の現実、現実原則を瓦解させ、元々危うい言葉と認知との連係を断ち切り、思考と言葉を声と託宣に回帰させる時、「マッツェーリは人間であり、狼である」という言葉は、既に分節された現実世界と知覚からではなく、現実世界に向けて到来する原初的な言葉となり、それゆえ言葉が現実にではなく、現実が言葉に従い、言葉によって開始され、人は自らがまだ人間ではなかった場所で、「人間である」ことを開始し、同時に「狼である」ことを開始する。≫