引用、樫村晴香(「現代ナントカ」補遺)

●15日や17日に書いたようなことを考えていると、いつも結局、樫村晴香の、例えば次に引用するような文章に突き当たってしまう。というか、ぼくが「現在」から感じている感触の多くは、樫村氏のテキストを読んだことのインパクトによってもたらされているのだから、それは結局、ぐるっとひとまわりして同じ場所に戻ってきたに過ぎない。ぼくはただ、樫村晴香の衝撃を、なんとかマイルドなのもに納めたい(自分にとって「耐えられるもの」に懐柔したい)と必死になっているだけかもしれない。
●《今日人々は、家族・性愛と個人的欲動対象によって、自らを何とか支える。誰もが人間主義者だが、階級・階層はますます固定し、毎晩ボルドーをあける者とスーパーマーケットのテーブルワインを飲む者は、人生で一度も出会わない。真理や善悪、自由や正義など、歴史書の言葉であり、真理の開示、善悪の峻別は、クレオーンの法の下に生きるイスラエル人やパレスチナ自治区民にだけ約束される。外傷を共有し抑圧する者は真理の開示に出会い、正義を知るが、戦場から脱出できる者は欲動と資本主義の道を進み、真理や善など恐れるに足りない。誰もがアンティゴネーであり、彼女は死なず、先進国民として生きつづける。クレオーンの法、ソフォクレスの劇の外でアンティゴネーを祝福する、例えばラカンの唐突な、デリダの退屈愚鈍な文章は、ギリシャをこよなく愛した三〇〇余年の貧者の精神主義の、倫理的無効性と消滅を記念する。
(略)セネカアウグスティヌストマス・アクィナスらは、許される飲酒の程度を哲学的議題として真剣に論じたが、この伝統は復活が望ましい。どの程度の酒、どの程度の過食、どの程度の虚言が許されるか、知者や聖職者はどの程度の労働を許容すべきか、野蛮人はどの程度人間か、等々、トマス・アクィナス的問いは、可能な去勢の様態の隠喩である。去勢は単一ではなく多様であり、各人の経済的、知的、性的資産に依存する。いずれ消滅する人類史の中の僅かな時間を、どの程度無理をせずに、どのような仕方で、どのような人々と、何を語り、食べ、見、触り、聞き、存在を受容/断念し、生きられるか。その様態は人々の利用可能な快楽の中身に依っている。世界と自分の存在の絶対性を疑わない者、存在の偶然性を知り狼狽する者、知った上でなお楽しむ者、年収一〇〇〇ドルの者、年収一〇〇万ドルの者、醜い者、美しい者、それらが住む世界は別であり、異なった善悪と法に従っており、しかも資産のある者はその違いを知りつつ、ストア派的/人間主義的穏便さにより口をつぐみ、貧者は普遍性の神話を信じ、階級制は持続する。》
(「ストア派アリストテレス 連続性の時代」)
●《巧妙に調整された孤独のなかで、相手のなかにはあらかじめ先取りされた自分だけが存在し、そこでは触れ合うことのないふたつの夢が眼をつぶる。例えば現代の家族というものを見ればよい。だが、自動車はいつでも先取りされたあなたの夢であるとしても、人間や知能といったモノは、ある日あなたの夢のなかで、突然あなたの知らない言葉を叫びながら、拒絶し、罵倒し、殴りかかって来るかもしれない。何しろそれはあなたではないのだから。あなたはその言葉さえか、基本的感情も理解できず、それを他人として認知するには、一からすべてをやり直すべきである。ハイデッガーの夢のように、同じ風雪と物質を学んできたのではない他人たちに、互いに同じ種類のモノとして、ぎりぎりに共有された、苦痛が快楽へと転化する道徳という機械語を、最初の一歩から立ち上げつつ、その上に造形された感情の組成への互いの道を、学び合っていくしかない。
精神現象学』におけるように、同じモノを所有し合う人間と人間としてでなく、相互に掠め取られるモノとして面する人間たちは、自らのモノとしての性能を学習し待機する義務がある。同じモノを所有し合う人間は、他人として現実を共有し、モノとしての人間はそれぞれの夢を別にもち、だが、夢の中で、全くの異物があなたが用いた方程式とは別の仕方で自分を構成してみせるとき、この否定の暴力は逆に親近性を証明し、夢のなかの異物によってあらかじめ見られていたかもしれないという、羞恥と快感が、あなたの体を強く揺さぶる。自分の夢のなかで傷つき、死ぬかもしれないという恐怖が、その時、夢を現実に修復するのだ。そして一瞬のちにはテクノロジーがやってきて、それをまた夢に戻していく。》(「所有する君を所有する、頭の後ろの自動人形の死について 」)
●これらの文章のあまりに力に、ぼくは目眩と恐怖とを感じつつも魅了され、その場に何度も引き戻される。(それはぼくが樫村晴香に転移しているということなのか。)これらの文章にはおそらく樫村氏の「症候」がはっきりと記されている。だからこそここまでの密度があるのだろう。例えば、次に引用するマルクス・アウレリウスについて述べた部分などは、樫村氏が自分自身について語っているとしか思えない。
●《しかし例えばマルクス・アウレリウスは彼自身の症候を明確に保持しており、それは第一に彼が『自省録』を書き続けたこと、次に妻への愛である。彼は言う。「人間には人間的でないことは生じない。牝牛には牝牛に自然でないこと、葡萄には葡萄に自然でないこと、石には石に特有でないことは生じない。生じることは全て自然であり、君は不平を言うべきでない」。転移を遠ざけ、人間を客体化した彼にとって、人間の全ての愚かしさは必然的連関の中にあり、了解可能である。しかしこの文が本当に言うのは、人間も牝牛も葡萄も石も同じだという、存在への無関心と失意であり、それ以上に、そのことを牝牛や葡萄に向けてくり返し言い、反復し循環し、欲動に回帰し退行することで子供じみた復讐をなしとげる、その感覚の幸福である。》
(「ストア派アリストテレス 連続性の時代」)