2019-09-17

●引用、メモ。『藤森照信の茶室学』より。

禅宗の影響からくる「草庵」---俗を捨てて悟りを求める人が、都を離れて山里に“独居”するため建物---としてあったものが、トポロジカルなねじれによって、「堺」という商業都市の内側に(いわば「内にある外」として)再帰的に組み込まれる。町屋の裏庭に「市中の山居」としての(「内にある外」である)草庵が結ばれるようになる。外が内へと畳み込まれ、内が外へと開き出される。このようなトポロジー的ねじれ---反転---によって生まれた「市中の山居」としての草庵の成立が、(利休による)茶室という特異な空間が生まれるための下地としてあった、と。おもしろい。

《日本の建築の長い流れの中に短い安土桃山時代を置くと、まず信長により国籍不明の天守閣が突発的に出現したこと、次に秀吉の聚楽第で書院造りがピークに達したこと、そして利休の茶室が生まれたこと、この三つをもたらした時代といっていいだろう。》

(…)困惑の理由は利休の茶室で、どうして、和漢洋混在の天衝く建物と豪華絢爛の大建築と並んで、広さ畳二枚のような建物が登場するのか。利休は、社会的には信長と秀吉の茶頭として和漢洋混在と豪華絢爛の中心にいながら、なぜあのような美学を生み出したのか。》

《この時代は今から思うと不思議な時代で、内戦の最中なのに国際関係は充実し、中国、朝鮮、東南アジアとの貿易、交流に加え、地球の反対側からやってきた東回りのポルトガルと西回りのスペイン、さらにはイギリス、オランダなど西洋諸国と貿易し、人と文化の交流を果たす。内戦の最中なのに、国内経済はにわかに盛り上がり、それに国際貿易が加勢し、そうした富の力を背景に芸術と文化の領分も煮えたぎり、沸騰する。》

《やがて利休によって完成される草庵茶室の元をたどると、鎌倉時代の草庵に行きつく。都を離れ、草深い中に作る極小住宅のことを庵といい、中でも草を結んで建てたような貧相極まりないのを草庵と呼ぶ。草庵には“世捨て人”が独居した。力と財と名と色のこの世を捨て、出家し、仏教の僧として独居することが多かったのは、インドにはじまった仏教には伝統の神道などとちがい“悟り”の考え方があったからだ。》

禅宗鎌倉時代に日本に入り、草庵独居の思想と文化がはじまる。先駆者は西行北面の武士として朝廷に仕えた後、この世の無常を感じ、出家し、自分の得た境地を多く歌に詠んだ。「寂しさに耐えたる人のまたもあれな 庵並べむ冬の山里」。(…)この歌には二つの含意が隠されている。》

《一つは、最初から平気で一人で生きられるような人と庵を並べたいわけではない。多勢と共に生きることの楽しみと喜びを経験しながら、しかしそれを捨て、一人で生きる覚悟を得た者とならば庵を並べよう。もう一つも論理は変わらず、この世への欲望のもともと薄い人が欲望を捨てても悟りとはいえず、力、財、名、色からなるこの世界を欲望全開にして生きた者のみが、世を捨てて冬の山里の庵に入ると悟ることができる。》

《草庵での超俗とは、俗の世を存分に生きる力とその体験を前提としながら俗を抜けて別の場に移ることを意味する。(…)社会的に見れば、別の場とは俗の世の対極に位置し、俗の世を批判し相対化する作用を果たす。》

《利休の活動に先立つ頃、草庵は多く都の郊外に結ばれ、隠居した僧や文化人や裕福な町人などが独居していた。忘れてはならないのは、都との距離で、もちろん都のにぎわいは届かないものの、山の奥までは入り込まず、たとえば都の周辺の寺の裏山などの夜になると都の明かりが遠くに望まれるような距離を保っていた。対極としての緊張感が感じ取れるような距離。》

(…)どうして、中世初頭の京に源を発する草庵と茶の二つ流れは、中世から近世への端境に、ほかならぬ堺で合体したんだろう。》

《都の灯がほのかに見える辺りに立地していた世捨て人独居のための草庵は、やがて、都市の充実、過密化のなかで、都市の中心部に住まう裕福な商人が、自分の住まいの一画にも求めるようになる。人工物としての都市が、都市の中に草庵の“草”を求めた。具体的には、通りに面して軒を連ねる町屋の裏には必ず通風、採光、作業のための空き地が取られているが、その空き地に植物を植え石を並べて小さな庭を作り、庭の隅に草庵を結ぶ。一人になりたいときや親しい友人が訪れたときは、そこに入ってひとときを過ごす。(…)経済的にも文化的にも恵まれた「市中の隠」が営んだこうした庵のことを「市中の山居」とか「市井の山居」と呼んだ。》

《激しい都市化は、(堺が)商業都市だったことによる。京のような都は政治都市であり、庭付きの大きな宮殿とか政庁とか、大きな行列が通り国の威風を見せる大通りや広場などを不可欠とするが、逆に商業都市は、ヴェネチアアムステルダム、ニューヨーク、上海などの世界の国際貿易都市を思い浮かべれば分かるように、必要最低限の公共面積のほかはすべて店と倉庫と住まいに当てようする。いきおい、過密化は避けられない。》

《富と建築のギュウ詰め状態が、それまでの草庵にはなかった市中の山居をもたらしたのだった。》

《海外の国際貿易都市でも自然を求める気持ちは強く、そこここに緑が取り込まれているが、市中の山居はそれとはちがう。緑と一緒に草庵が持ち込まれたことに注目してほしい。緑だけなら通風と日照のためのただの裏庭にすぎないが、草庵の投入によって、その一画は通りに面した母屋同様、小なりといえ一軒の家が入ったことになり、ただの小さな裏庭が、本来の草庵の周りに広がるはずの森や緑や水といった屋外の自然と通底することになる。都市の外に広がる大きな自然が、草庵を一つの穴として市中へなだれ込む。》