2019-09-18

(昨日からのつづき)「悟り」という概念は、「わたしが悟る」というのではないにしても、少なくとも「悟り」が「わたしにおいて」現れる、あるいは「わたしのところに」生じるのでなければならない。だから、悟りを願う者は、たったひとりのこのわたしとして、この世の無常と向き合う必要がある。禅宗の影響を受けた人たちが独居することを求め、そのための草庵を必要とし、あるいはそこまでいかなくても、一時ひとりになれる場所として(「市中の山居」として)邸内に草庵を必要としたということは納得できる。そこは、社会的、経済的、血縁的な諸関係を一時的にでも切断して、悟りを求める孤独な「わたし」として、単独的に世の無常と向き合うことを可能にするための場所であっただろう。だから、たとえそこに親しい誰かを招いたとしても、その親しさは社会的関係性とは異なる、個と個の関係としての親しさであることになるだろう。

このようなものとして成立していた草庵が、「一座建立」ではなくあくまで「一期一会」を主張した利休の茶室成立へと至る下地として必要であったということには説得力があるように思われる。だが、利休は「一人茶室」という方向へは行かなかった。

●以下、『藤森照信の茶室学』より引用。

(…)待庵の二畳は、主・客の二人を前提としていたが、どうしてもっと踏み込んで一人用にまで突き進まなかったのか。畳二枚であれば、一人で煮炊きし寝ることもできる。》

(…)同時代の丿貫は、米を炊いた鍋の底についたオコゲをかき落としてから湯を沸かして茶を点て、その一人茶ぶりに利休は引かれて、訪れている。先に、珠光のわび茶について、その先には岩の上で一人茶を飲む道があり得たと述べたが、丿貫はその境地に近づいていた。そもそも堺の茶室の手本になった西行や長明や兼好の草庵は、独居だった。》

《一人は個人を、二人は個人と個人の関係を、三人は社会関係を意味するとするなら、なぜ利休の茶室は、一人用の一畳台目でも三人用の三畳でもなく二畳なのか。その二人がなぜ自分と秀吉だったのか。利休のわび茶は秀吉を必要としていたのではないか。》

《発端はやはり信長の堺攻めだったにちがいない。利休の茶の拠りどころだった堺を力で押しつぶし、金で名物道具を買いあさった。》

《年譜を見ると、永禄一一年(一五六八)九月、信長が京に入り、一〇月、堺に失銭二万貫を課し、結局、翌年一月、堺は全面降伏しているが、一〇、一一、一二、一月の四ヶ月間に、堺ではさまざまな意見が出て、内訌が生まれ、策略が交わされたはずだが、四六歳の茶好きの納屋衆も態度を迫られたにちがいない。そしてこの冬、利休は逼塞したという。》

《信長の下に就くことを決めた堺と堺の茶界の大勢に抗し、隠居して一人茶の方向に進むかいっそ禅門に入るか、どっちの可能性も利休にはあった。にもかかわらず信長の茶頭の一人に上がったのは、心に期するところがあったにちがいない。でも、信長は、すでに述べたように茶の内容にも茶室にもまるで関心を示さなかった。》

《信長が倒れ、茶好きの秀吉が登場したとき、利休は勝負に出た。道具でも軸でもなく茶室を土俵に選んだのは、これもすでにふれたように安土城体験だったと思われる。》

《極小茶室は信長を相手にするときだけ作ったことが分かっている。山崎の待庵を皮切りに、秀吉が安土城に負けまいと築いた大坂城聚楽第に一つずつ作った。》

《もし極小茶室が中から外の庭を見ることのできるオープンな作りだったら、都の力と贅のただ中で鄙びた風光を楽しむ亭(あずまや)の一種と見なせるが、しかし極小茶室から外を眺めることはできない。茶室において障子は決して開けないし、もし開けても視線の高さをはずして作ってあるから外は見えない。》

《小さな入り口からもぐり込む閉じた空間は壺中天にちがいない。壺中天は、小さくともその中にこの世とは別のもう一つの宇宙がすっぽり入っている。壺中天としての極小茶室。》

《でも、普通イメージされる壺中天の別世界性とはちがう。ただ別世界を作りたいなら草庵茶室と共鳴する郊外の田園風景の中に作ればいいのに、どうしてわざわざ大坂城聚楽第でなければならなかったのか。》

《ゴムマリに小さな穴を開け、そこからズルズルと中を引き出すとまたマリに戻るが、しかし同じではなく、内と外が反転している。ゴム膜が反転することによって以前の外部がマリの内側に入り込んでいる。》

《この反転の空間的面白さを作品としてはじめて試みたのは赤瀬川原平で、一九六三年、「宇宙のカンヅメ」を発表した。》

《普通の壷中天ではなく、反転によって外側のすべてが中に封じ込まれた壷。この反転を可能にするのは、穴が小さいこと、中が閉じていること。そしてもう一つ、反転が意味を持つのは、外が真空状態ではなく物や力や富といった世俗があふれていること。》

《反転は、利休一人では外が真空状態と同じで意味を持たず、秀吉という物と力と富の所有者が小さな穴を通して入ってきてくれないと反転の秘儀は成立しない。入ってくれば、世俗の物と力と富が茶室という茅屋の内に封じ込められ、極小が極大を含み、極小の中に極大もまたあることになる。》

《反転現象は、待庵以前から堺のわび茶の領分では実現していた。都市の外の田園の中にもともとの草庵はあり、それを小さな庭を付けて都市の中枢部に持ち込んだのが紹鴎の四畳半の草庵茶室だった。》

《堺では、町の中に外の田園と草庵が反転して入り込み、利休の極小茶室では、大坂城聚楽第が、さらに秀吉という存在も反転して呑み込まれていた。》