08/01/15

●引用、メモ。ランシエールジジェク。政治の詩的機能と「現実的なもの」。快感を与えるシニフィアンの力。樫村愛子ポストモダン的「民意」への欲望と消費」(「現代思想」2008年2月号)より。(図書館に「文藝」をコピーしに行った時にみつけて、一緒にコピーしてきた。)
ランシエールは、プルデューが、文化と権力を結合して、持たざる者の政治的不可能性を指摘したとして批判している。プルデューは、この点で、アルチュセールと同じく、科学主義、知万能主義の過ちを犯しているという。ランシエールによれば、すべての人間は「語る者」である限りにおいて、平等である。社会的地位によって語る者でないと規定することこそが権力が行ってきたことだからである。プルデューがしばしば政治を「脱神話化」の機能として考えるのに対し、ランシエールは、政治の詩的機能、感性的機能を評価する。そして政治は「脱神話化」ではなく、信頼や幻想の機能であると指摘する。》
ランシエールにおいて重要なのは、ラクラウの考えるような、不在という現実的場所に政治という自由の可能性が単に偶然やってくるということではなく、プルデューが振りかざした民衆における知の壁を、美的なもの-隠喩というシニフィアンの効果によって突破しようとした点である。》
ランシエールは述べる。(...)政治的対話は、「ロゴスと、ロゴスを感覚と共に計算に入れること---感性的なものの分割=共有---との結び目そのものに関わるがゆえに、政治的対話の証明の論理は、不可分に表出の美学でもある。『美学』とは、切り離された表現制度のあいだのコミュニケーションをもたらすものである」。》
《もちろんここで、現実には、フランス革命の歴史の揺り戻し一つとってみても、政治は自己啓発セミナーのように権力の奪取においてすべてを変えてしまうものではない。長い時間をかけて人々を変える力をもつ権力装置の布置を暴力的に特権的に書き換えうる、合意をまさに美学的表現や隠喩において取りつけるものでしかない。しかしそのことの効果は大きいものである。そしてその権力の奪取と装置の布置の書き換えという出来事は、ゼロからいきなり出現するものではなく(「ベルリンの壁」のように偶然として語られる歴史的出来事は、その出来事そのものにおいてはそうであるが、無数の偶然性を胚胎する条件をすでに備えていただろう。もし無からいきなり出現したようなものであれば、現実の持続が困難なため、トラウマでしかなくなり、揺り戻しせざるをえない)、それを可能にする現実的変容を基礎としている。》
《ベルシーは、ジジェク現実界を空無と同一視し、非観念論であるラカンドイツ観念論の再現へと誤用していることを批判している。ジシェクにおいて、現実界は生体から切り離され、構造化された不在となり、最終的には空虚な空無となる。彼において現実界は心的現象として遡及的に生み出され、その構成の外傷的な瞬間は、社会的対立として外部に投影されるため、死の欲動の出現を代表象する。それゆえ彼にとって、現実界の空無を満たす「崇高な対象」は、魅了とすると同時に嫌悪感を引き起こすものであり、ラカンが記述する「快感を与えるシニフィアンの力」を無視する。》
ジジェクは、この意味で、ランシエールの政治の美学の意味を理解することはない。ランシエールの政治の美学は、美学が人々に与える力についての記述だからである。テレビと結合したポストモダンポピュリズムの隘路において現出する政治的なものをランシエールのいう政治の美学がどうつかまえうるかについては、ここで簡単に述べることはできないが、例えば、ドゥルーズが述べたように、強迫的な(転移)コミュニケーションの回路を断ち、非=コミュニケーション的な空洞や断続器を作るという方法もその一つである。》