ロメールが亡くなったのは、ぼくにとって大きいことだ。ロメールとリヴェットとゴダールは死なないものだと思っていた。少なくともぼくが生きている間は。勿論、そんなことはあり得ないことは知っているのだが、それでも無意識の領域でそう信じていることが、ほくにとっての世界の安定を支えているというところがある。15歳くらいではじめてゴダールを観て以来、ヌーヴェルヴァーグというのは、ぼくにとって世界と触れる時の一つの基準としてずっと作用している。それは、個々の作品が面白いとか面白くないとかということを越えて、そうなのだ。実際、最近のロメールの映画などろくに観てはいないのだし、リヴェットやゴダールの新作に特別に心が躍るということもなくなっている。それでも、彼らがこの世界のどこかで生きていて、映画を観たり、つくったりしていること、それによって世界の底が支えられている、という感覚がぼくにはどうしてもあるのだ。その一角が崩れた。
●引用、メモ。樫村愛子『臨床社会学ならこう考える』第二章「資本主義の言説」(ラカン)と「新しい心理経済」(メルマン)より。「見せかけの現実的なもの」の露呈と、人間が現実界に食われてゆくこと。
精神分析理論が現代の危機に対して指し示しているのは、信頼(S1)と知(S2)の失墜である。精神分析で言うS1とは主人のシニフィアンと呼ばれる、世界に対する無根拠な信頼であり、S2は象徴的なものの宝庫である。フーコーの議論で言えばS1が権力、S2が知であるだろう。二〇世紀の哲学・精神分析的認識は、知が知として成立する枠組みとしてのS1を発見したことにあるだろう。しかし、フーコーポストモダンの議論は、S1とS2をシニフィアンシニフィエの恣意的な結合として歴史的恣意性においてしか捉えておらず、人間にとっての知や意味がS1を根拠にして成立していることには無知である。》
ラカンは、産業社会に入り、ものは技量から作られるのではなく、象徴界の科学的知識から計算や計画によって作られるようになり、生活が現実界に侵されるようになったと指摘する。これまでのように、生活世界のイマジネールな枠組みの中で手作りによってものが生み出されるのとは異なり、産業社会においては機械にって次々「装置 appareil」(ラカンの表現による)が作り出されていく。》
フロイトが指摘した「文明の中の居心地悪さ」とは、抑圧がますます増大化することによって生み出されていたが、ラカン版「居心地悪さ」は、抑圧と代わる衝動の増大化によって生み出されているとミレールは述べる。》
《さらにラカンは、通常「現実的なもの」にはアクセスできないが、現在計算や数字によって生み出される「現実的なもの」は、アクセス可能になった「現実的なもの」であると述べる。アクセス可能になった「現実的なもの」、ラカンはこれを"物質化された""人工的な"「現実的なもの」であると述べる。そしてさらにラカンはこれを「見せかけの現実的なもの」と形容する。
ラカンが「見せかけ semblant」という用語を使用するときはいくつかの様相がある。が特に後期、セミネール二〇巻の頃では、「女性」と「真理」の関係を語る中で、ニーチェデリダに見られるような真理の仮装性を論じていた。それゆえここでいう「見せかけの現実的なもの」とは、「見せかけではない本当の現実的なもの」と対置した「まがいもの」という意味で記述されているのではない。すなわち、通常はアクセス不能現実界が産業社会において見たり触れたりすることが可能なものとして産出されていることを示唆している。》
《ミレールやメルマンは、産業・消費社会の中で生み出されるもの、ラカンのいう「見せかけの現実的なもの」が、脱象徴化や脱想像化されたものであり、象徴界想像界との主体の関係にも影響を及ぼしていることを示唆している。彼らはこのことを、現代社会は「シニフィアンの経済」ではなく「シーニュの経済」によって構成されつつあると指摘する。
ミレールは「シーニュの経済」をレヴィ=ストロースの議論(世界観)を参照して説明している。ラカンは、ものと世界の二元論で構成するレヴィ=ストロースの議論との論争の中で、世界とものがあるだけでなく、ものが名指される場所、表象される舞台としての、大文字の他者の場所があると指摘していた。世界が内在性に還元されるのを妨げているのは言語であり、言語の効果により、内在性は超越性によって働きうる。こうして世界は、物理学や統計学の法とは異なる、シニフィアンの法によって形状化されている。しかし現在、シニフィアンの法ではなく、物理学や統計学の法が、シーニュによって構成されるレヴィ=ストロース的世界を構成しているとミレールは述べる。》
《ミレールは、現実的なものに侵されつつある私たちの生活において最も危険な事態は、「居心地の悪い」「現実的なもの」そのものに私たちが適応させられてゆくこと、「現実的なもの」そのものに私たちがなってしまうことだと指摘する。
「現実的なもの」とはもともとは「居心地の悪いもの」であり、例えば、「精神衛生」は居心地悪い耐え難い現実的なものを排除することを目指す。が、人間が「現実的なもの」(究極的には「死」)を排除することは現実には不可能なため、とんでもない反転として、人々はこれら「物質化された」「見せかけの」現実的なものに「適応」してゆくことで対処していくといった、倒錯的な状況が起こる。ラカンはこれを「人間が現実界に食われていく」と記述するのである。
ミレールはこれを別の文脈では、我々が「リスト化」されることを求められており、機械のようになること、すなわち人間が自分自身を修理したりプログラミングすることが求められていると指摘する。例としてミレールは、自己を肯定する認知-行動学的心理学を挙げる。そこには主体の亀裂や無意識は存在しない。主体は、認知−行動学的「肯定の主体」へと自己を「機械化」してしまう。こうして人間自身が「見せかけの現実的なもの」となってゆくのである。》
●人間が「居心地悪いもの」としての現実界を排除しつつ、しかし現実的に、生物として生きることにはなんとか適応できる程度にはそれ(現実的なもの)を受け入れてゆく、そのための洗練された媒介が「文化」であり、それは究極的には言語のことであり、言語を可能にする表象の舞台としての「大文字の他者の場所」のことである。そうである限り「文化」は必然的に抑圧-権力-排除を含み、ポストモダンの思想はその点を指摘した。しかし産業構造や社会の変化によって抑圧(超越性)の作動そのものが困難となり、それによって、我々と現実的なものとを仲介的に媒介する「大文字の他者の場所」の成立が困難になれば、我々は直接的に「居心地悪い」「見せかけの現実的なもの」に触れなければならなくなり、しかしそれは耐え難いものであるから、我々自身が、自ら「見せかけの現実的なもの」へと成ることでそれに適応することを強いられる。
ここに記述されているのはそういうことであろう。それはつまり、人間および人間的な世界の崩壊で、現在、そのような光景をこそ欲して、推し進めようとしている人さえ少なくないと感じられる(動物化、工学化)。実際、人間が完全に崩壊し、我々がみな機械として生きることが可能で、精神分析など不要になるのであれば、それはそれで問題はないとも言える。しかしここで問題なのは、我々はまだ十分過ぎるくらい人間であり、つまり、人間の崩壊は現実的なものである以上に、人間の崩壊というイメージ(想像的なもの)であり、それが一つの隠喩として作用している(つまり未だ精神分析の圏内にいる)という点だと思われる(知-分節が、隠喩-幻想の場へと転用されてしまうという、きわめて人間的な事態)。つまり、文化などしゃらくさい、いっそ人間なんて崩壊してしまえ、科学と経済に全てを還元してしまえ、その方がすっきりするしフェアではないか、という感情(それはぼく自身にとってもとてもリアルな感触をもつ)そのものが十分過ぎるくらいに「人間的な感情−気分(隠喩)」なのだということが問題であるように感じられる。それは、現実界に食われつつも、未だ十分には食われ切っていない人間が、自らのそのような位置を無理矢理に正当化(適応)しようとしてあみ出した感情なのではないだろうか。