●引用、メモ。樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』三章「ジェンダー精神分析」より。男性が、自己言及的なパラドクスの場(言説の場)で隠喩を作動させる傾向があるのに対し、女性は、身体的退行的な場で隠喩を作動させる傾向があること(女性的隠喩の機能)。女性的隠喩による世界構築の困難と『源氏物語』の構築性。『源氏物語』においては、反復・類似が、「遊び」ではなく、その都度の、主体の反復的生起(反復強迫)としてあること等について。
《文化とは、世界についての分節が進み、世界が主体にとって安定的に閉じている(=世界の全体性)という幻想が不可能になってくるとき、意味の未分節な場所を再構築し、世界の全体性を人工的に再構築し、人間に幻想を与える作用を持っている。隠喩はその典型的な作用であり、言語の反復性と詩などにみられる音としての未分節性を利用して、意味を麻痺させ、人間が言語を獲得する土壌であった、母から贈与された(音としての)言葉を再現して、幻想を構築するものである。またそれは一見無意味な言説、矛盾した言説を提示することで、言葉の限定性を越えたいとする人間の幻想を導く。「神を信じるものは救われる」のように、世界の多くの男性文化は、世界宗教に見られるように、言説と世界の矛盾を隠喩的言説によって乗り越えようとする。しかし女性は、社会の主体として言説によって限定される契機が弱く、言説による限定への拒否感情が強いため、言説の審級におけるパラドクス的な論理よりも、より身体的退行的な隠喩の場所を志向しやすい。これが女性的隠喩である。
女性的隠喩は、世界を構築する方向へ行かず、部分的な場に閉じている場合には、そこで鋭い身体的感覚についての表象を提示するだろう(例-枕草子)。それに対し世界を構築する方向へ行く場合には、大きな困難をはらむこととなる。前章でみた女性と世界の関係に基づく困難であり、『源氏物語』は後者のケースである。しかも、女性的隠喩が依拠する身体的退行的隠喩の場所といえどもそれ自体一つの幻想であり記号でしかないのだから、現実には彼女が棲まう世界の言説や知に立脚する。それゆえ『源氏物語』は、一方で浮遊した高度な言説に立脚しながら、他方では貧しい権力装置-社会装置を自らの思考と想像力の源泉とし、両方の要素を引きづりながら苦闘することとなる。》(『源氏物語』における女性性について)
《女性は主体として構成されるとき、男性と比べ、最初から能動的場所を奪われて世界に位置づけられ、知と言説から排除されている。それゆえ女性主体を支えるような幻想の構成は、限定性を帯びる言説の影響から自由であり、よりラディカルで絶対的になり、知や言説を否定する方向へ行きやすい。男性は、世界において能動的な場所をとっているが、それゆえに知や言説の限定性を引き受けざるを得ず(=去勢)、しかし主体は基本的に世界や自己を絶対的なものとして想定したがる(=幻想)ものゆえ、幻想を言説的な場と切断し、非言語的な場に幻想をふり当てることとなる。女性の場合は、この切断が明らかでないため、言説の場にも幻想を巻き込むこととなり、限定性をもった言説を全体性を構成する幻想に従わせることになる。この女性の幻想の絶対性ゆえに、女性教祖の新宗教は、言説や権威に対する徹底的な否定性と批判性をもち、天皇制との対立は、戦略的にいえば稚拙で度を越したものとなった。》(新宗教の女性教祖と日本近代国家)
《まず、彼女(源氏物語の作者)の世界構築の試みはそもそも原理的困難を持っていた。彼女が一から理想世界を構築しようとしたことに見られるような能動性や営為は、彼女が世界に望む絶対的なものとは論理的な矛盾を抱える。能動性や営為は失敗をはらみ限定的なものだからである。絶対的なものとは母親の行為を受ける子供の態度(子供の行為に対する母親の態度)で見られるように受動的なものである。世界がまず所与のものとして受動的に供与されるからこそ、最初世界は主体を完全に支配する絶対的なものとしてある。それゆえ作者が絶対的な世界を幻想したとき、もし高度な隠喩的言説によって人工的に絶対性を構築しないとすれば、それはより退行的に自然であると観念される受動的なものとなるだろう(女性的隠喩の戦略)。作者は、文化による王権を構想したのであるが、文化のもつ能動性は必然的に限定性をはらみ、自然とは対立してしまう。それゆえ、高貴さや血筋が、文化と自然を難なくつなぐものとして観念されたのだろう。》(『源氏物語』における女性性について)
《当時の和歌文化は、ここでいうような喩や類似の機能をふんだんにに持ち合わせていた。また散文に比べとりわけ和歌にはその性格が強かっただろう。喩や類似のもつ意味の未分節性や反復の機能は、和歌空間では退行的な遊びとして存在していた。もちろんそれらは高い構築性をもち、風刺や恋愛の不可能性を示唆する力をもっていたとはいえ、この文化を担った男性たち、そして彼らによって支えられた当時の疑似女性文化は、文化と権力、恋愛と生を分離し、和歌文化を遊びの中に囲い込んでいたように思われる。しかし『源氏物語』では、この喩と類似の空間の中で、まさに主体が生きること及び世界の絶対性が求められるため、『源氏物語』の中では、言葉遊びとしての反復ではなく、主体自身の反復が生起することとなる。『源氏物語』における、類似の機能において反復して現れる登場人物の類型性・登場人物の行為の反復性は、これを示唆している。それは精神分析的には「反復強迫」とよばれる現象であり、主体が自身の組成に遡って(もともと主体とは他者の行為を反復することにより構成されているので)、元基的な自身を幻想的に再構成する症候である。(略)
こうして、作者の女性的隠喩の方法は、言説形式においても高度な戦略として結実し、当時の文化の最高水準であった和歌の立脚していた言説形式を使用しつつ、この形式の切断的・人工的閉所性=欺瞞性を物語り内部の不可能性を通じて提示することへとつながっただろう。彼女の言説形式は、やはり当時の和歌文化のバランスのとれた文学空間(=疑似女性構造)を彼女なりのしかたで完成させつつ(=純粋な女性化)、解体させたのである。》(『源氏物語』における女性性について)