引用、メモ。遊びと身体制御の獲得について(樫村愛子)

●午前中は制作、午後は、一昨日試写で観てきた『ミリキタニの猫』という映画のレビューを書いていた。この映画は、サクラメントで生まれ、広島で育ち、戦前の日本の軍国主義化に嫌気がさして、「私はアーティストだから兵隊にはならない」と家を出てアメリカに渡り、しかしほどなくパールハーバーがあって収容所に入れられてしまったという日系の画家、ジミー・ツトム・ミリキタニ(三力谷)という人のドキュメンタリー。彼は収容所を出たあと、主に飲食関係の仕事をしながら絵を描きつづけ、ジャクソン・ポロックに寿司や天ぷらをふるまったこともあるらしいのだが、1980年ころに職を失って以来、ニューヨークでホームレスをしながら絵を描いていた。ソーホーの路上で寝起きしていた2001年に、この映画の監督となるリンダと出会い、9・11をきっかけにリンダの部屋で同居することになる。ミリキタニは、収容所の風景を繰り返し描き(それは社会的な告発を意図したものではなく、反復強迫のように、それを描かずにはいられないという感じだ)、自分たちを収容所においやり市民権まで剥奪したアメリカ政府を強く非難して、そのような政府から社会保障を受けることさえ拒否する姿勢だ。ミリキタニはこの映画のなかで「北国の春」や「奥飛騨慕情」を歌っているのだけど、発声に演歌っぽい抑揚や湿り気がまったくなくて、しかもメロディがへんにオリエンタルっぽくなっていて、それが、アメリカ人がイメージする、中国人と区別のついていない日本人の紋切り型みたいな感じで、その感じがこのミリキタニという人が置かれた皮肉な位置をよくあらわしているように思った。とても面白い映画だった。(ミリキタニの絵はいまいちだけど。)
●引用、メモ。遊びと身体制御の獲得について。「コミュニケーションと主体の意味作用」(樫村愛子)より。おそらく、東浩紀斉藤環が「ラカン」を問題にする時に、根本的に欠けているのは、次のような部分であるように思われる。
《そもそも「遊び」とは人間だけのものでなく、犬や猫もまた遊び、世界と自己の確立のために他者を不可欠の契機とする。欲動、あるいは反復-再演という人間の「遊び」を規定する基本構造は、犬や猫にも充分に妥当する。人は犬が遊んでいるのを見て、それがまさに「遊びである。」と納得する。だが、犬をみればわかるように、「遊び」は基本的に補食のための訓練で、筋肉の随意運動のパターンを学習させる過程である。男の子が糸巻きを投げる行為(フロイトの糸巻き遊びのこと)は、母親を認識の対象として、自己と母親の関係を設定し、解釈することだが、それ以前に、「物を投げる」という行為の訓練である。ここで「移行対象」がもつ、より根底的な機能が確認される。対象の現実的現前とともに駆動する欲動(口唇運動等)は、遺伝的に確立された非随意的な運動だが、「移行対象」をめぐる運動は後天的-可塑的なもので、筋肉の制御アルゴリズムの形成途上に位置している。
ここで「移行対象」と「幻想の設立」のためには、「他者(対象)」が適切なリズムとパターンをもって、協調的に出現することが不可欠である、というすでに述べた前提を想起しよう。
ここでは二つのことが問題となっている。まず第一に、今日制御工学が素描しつつあるように、主体の随意運動は、フィードバックによる逐次訂正的な遂行過程ではなく、目的に至る軌跡を確立した上で逆にその微分値として個々の瞬間の筋肉運動を決定してゆくような運動で、それは運動の種別性に応じてあらかじめ確立された運動アルゴリズムを要求する。このアルゴリズムは学習とともに確立され、この学習の初期過程では、対象として出現し遊びを誘導する他者の運動(例えば母猫の尻尾)が、運動の適切な全体像とそれを構成する運動過程を主体に提示し、アルゴリズムの確立に特権的な作用をなしている。第二に、生物神経-情報工学が明らかにするように、主体の運動はいかに高度なものでも、発生的には基本的に振動運動への変換-変位の積み重ねとして成り立っている。例えば単純な反復的吸引運動の発展物として、対象物指向的な咀嚼運動があり、さらにその上に、差異化された口腔-発声運動(言語)が構成される。言うなれば、どのような随意運動も、その端緒は欲動的な反復運動で、その発展の途上にない運動を主体は獲得できない。そして他者(母親)は主体と身体的に同種なので、獲得されるべき運動の可能かつ最適なアルゴリズムを主体に先立って獲得しており、それを上述のように欲動に上乗せ可能な適度なリズムとともに主体に贈与する。つまり他者は主体の制御アルゴリズムの進化において、欲動から高度な制御運動に向けて、進化の時間を先取りして縮約し、主体に一挙に贈与する。》
●ついでにもう少し。対象と主体(そして「作品」)について。
《いいかえれば、「欲動」・振動としての原初的主体とは、「対象」そのものである。口唇対象である乳房が差し出された時にのみ口唇欲動と口唇運動としての主体は立ち上がり、そこでは乳房と分離した主体などなく、いうなれば乳房としてのみ主体はその場限りに存在する。主体とは欲動の運動であり、同時に欲動の対象である。
主体はそれ自身(欲動の)対象であり、、それ以外の場に主体は存在しないことは、精神分析的与件の理解にとって決定的に重要である(それは後で見る隠喩と意味作用の理解にとっても不可欠である)。主体が基本的に対象であることは、シニフィアンの整備とともに主体が乳児期から離陸し、言語によって意識し認識するようになった後でも、厳然たる下部構造として主体を規定し、さまざまな症候のもととなる。シニフィアンは対象とは別の次元に存在するので、シニフィアン(意識)の中に主体はなく、そのことは主体にとって苦痛であるゆえ、世界(=シニフィアン=意識)の中にはない自分自身を求めて、なおそれが世界のなかにあると信じつつ、人間は無数の症候(疑似対象)を形成する。宗教、政治、芸術といった活動はすべてこの疑似対象の再形成と関わり、そこで神の視線(宗教)や社会的理想(政治)や作品(芸術)は、何らかの意味で対象としての原初的な主体の存在=基体であり、とはいえなぜそれが自分にとって必要かは、主体は意識と象徴世界の内部では欺瞞的にしか説明できない。》