●ひたすら残雪を読んでいて、その合間に、気分転換のようにして(!)樫村晴香を読む。以下に引用する部分は「ドゥルーズのどこが間違っているか?」の理論的な中核部分。このテキストは、ぼくがはじめて読んだ樫村晴香で、もう十年以上も何度も繰り返し読んでいるのだが、以下の部分をわりとすんなり読めるようになったのは、ごく最近のことだ。
《かくして、この話(注、ラカンの「盗まれた手紙」についてのゼミナールのこと)を魅力づけるレトリックの根幹は、無意識から来る拍動としての反復強迫が、それを可能にするヒステリー的場を離れて、一つの象徴的な価値をもった倒錯的対象物として循環することにある。手紙あるいは潜在的対象=x(例えばマドレーヌの味)は、確かにDzのいうように、現在的時間に帰属せず、それ自体の力能において駆動‐移動する、「純粋過去」のものである。それは象徴的なオーダーの規定を受けていない、主体の原始的な反復‐模倣(偽装)、他者への=他者からの働きかけの現れだからであり、その点では、それは強度‐即自的なものと同じである。とはいえ、強度が結局主体を破壊していくような、分断‐細分化に向かう分裂病的な動きなのに対し、反復強迫は欲望の抑圧に起因し、その結果象徴的なものを迂回して現出する限りの、意識から分離された主体の原初的運動である。それゆえ反復は、基本的に他者に向かう(例えば剥奪といった)限定された想像的パターンを刻印される。つまり、強度はその無際限さゆえに、差異と等置しえ、現実界象徴界にまたがるものともいえるが、反復は神経症的抑圧に起因した、固定した幻想的内容に拘束され、それは現実界と幻想(想像界)の間にある。とはいえその限定性‐拘束性ゆえに、神経症的反復は、主体を破壊する(主体にとって本質的に無縁な)強度と異なり、主体と幻想を通じて結合し、主体の欲望を表出し、主体にとって意味がある(要するに端的に「意味がある」――なぜなら意味とは主体に対して存在する限りのものだから)ものとなる。しかしこの反復が、ヒステリー的(または強迫神経症的)な貧弱さを越えて象徴的な内実をもつには、意識の支配を越える(つまり純粋過去に属する)特質を捨て去り、倒錯的な対象に変質して、絶対他者や侵犯といった観念の規定を受けなくてはならない。しかしこのとき、倒錯的対象(大臣の手紙)は、すでに即自的なもの‐強度の境位から離脱し、Dzのいう意味での、「置き換わる‐偽装する」力能を失っている。それは倒錯的反復(例えばジュスティーヌがくり返し鞭打たれる)といった形態が保持されようと、全く同じことである。つまり倒錯的対象は、象徴的‐イデオロギー的世界と連携した、特殊な幻想的対象であり、いわば象徴界想像界の間にあるが、倒錯においてはすべてが意識の内部に押さえ込まれるので、真に原初的な拍動‐反復が貫流する現実界とは離れ、潜在的対象=xとしての力動を喪失するからである。》
●このテキストは、普通、ドゥルーズ批判として読まれるのかもしれないのだが、少なくともテキストの前半では繰り返し、「批判」という行為がいかに下らないか、下らないというのは言い過ぎだとして、それがいかに退屈なのかということが書かれているのだった。
《こういった傾向は、結局Dzがニーチェを向きつつ、実はハイデッガー、そして基本的にヘーゲルと対決し、ニーチェの言説を疎通不能なものとさせる悪しき傾向(差異の産出の問題を否定による統合という神経症的理論構成に回収する傾向)と対峙することをめざしていた、という政治的‐啓蒙的事情に由来する、というべきだろうか? だがヘーゲルには近代(国家)のヒステリー的戦略の細部を明かす固有の理論的内実が存在し、人がヘーゲルニーチェと「どちらが正しいか」という類の思考をとれば、それは「デュラスとカフカとどちらが正しいか」と問うのと同じで、異質なもの相互のわずかな共通部分に限定された、貧しい差異しか残らなくなる。とはいえ現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? 》
《....Dzでは批判という言説の作動が十分(以上に)生きている。ニーチェの「批判哲学」が対象への憐憫と郷愁そして無関心、他方での尋常でない狂暴さという不均衡を露にするのに対し、Dzの言説が全く穏便であり、しかしその展開において、常に想定された批判対象への備給を続ける執拗さをもっていることは、歴然たる違いである。これは結局、ニーチェが自己の体験‐実体に魅惑、というより蹂躙されていたのに対し、Dzがニーチェの体験‐言説に魅惑されていることの違いに回付される。人が「言説」に魅惑される限りで、思考の主体としての能動性(つまり批判的思惟)は放棄されず、魅惑の対象に対する受動性は、受動=能動という一体として可能となる。つまり魅惑されること(=幻想)という受動性が、思考‐批判という(魅惑するものの否定的対立物に向かう)能動性と、同じ領野に属し、相互に結合可能となる。この(Dzが好む)受動=能動という同一平面上での相補性は、強度‐反復(受動)が意味作用(能動)とは別の場にあるニーチェには、当然無縁のものである。》