樫村晴香によるドゥルーズへの批判のキモになるのは、強度−反復が直接的に象徴的なもの(シニフィアンの連鎖)を組み替え、意味を生産し得るかのような記述(二重のセリーの理論)に対して、それはあり得ないという点にあると思われる(「ドゥルーズのどこが間違っているか?」)。強度と意味とは根本的に次元を異にしているのであって、それを混同してしまうことによって、ドゥルーズの理論は、現実の分節ではなく、幻想と化する、と。それが、例えばニーチェにとって固有の病(固有の地獄)として生きられるしかなかったものを、あたかもあり得べきユートピア(あるいは理念)であるかのように読む傾向が生じる、と。あるいは、それでは倒錯(クロソフスキー)を捉え損なう、と。
《対象関係(原初的対他者関係)からこそ発生する、攻撃的−暴力的、つまり「弁証法的」な要素への無関心と、それ以上に、人間の身体−情動の回路と、言語−思考−意味作用の回路が、系統−個体発生的に起源を異にし、本質的亀裂をはらんでいることへの無関心である。既述のように、弁証法の排斥は、他者と抑圧(抑圧物の回帰)の問題系の忌避となり、その結果、絶対他者や悪・侵犯を経由する倒錯的戦略を軽視して、現実には倒錯を通じてこそ結合している強度−身体と差異−偽装を、腹話術的に短絡させてしまうことになる。そして身体と言語のオーダーの連結は、言語−思考から離脱したゆえに出現するものとしての、反復(強度)という原初的な「世界−意識の外からの」運動を、その運動を再解釈し、謎として構成しなおす、事後的−神話的な思考内部で処理させることになる。》
弁証法的要素への無関心」は、哲学史という「舞台」の上での演じられた意図的な無関心であるようにも思えるのだが(とはいえ、この二つの無関心は分かちがたく結びついていると思うのだが)、それはともかく、もとよりこのような謎−神話的な傾向は(ドゥルーズが批判しつつも決定的に影響下にあった)精神分析的思考に内在していた。しかし、神話的な思考の機能の有り様は、あくまで固有の個体(患者)への治療という効果を目指して組織される(つまり固有の対象との「絆」がある)精神分析的理論と、それを一般理論化し、世界の有り様を分節しようとするものとして拡張させる哲学的理論とでは、その意味が違ってくる。
《実際、クラインの分裂−抑鬱体勢理論---よい対象を自己が取り入れ−破壊することで、それは自己を攻撃する悪い対象となる、等々の一連の議論は、神話的−演劇的外観をもち、現実の過程かその神話的解釈なのかわかりづらい。しかし(…彼女の理論は)あらゆる分析概念がそうであるように、当然操作上の有意義性をめざして配置され、主体の現実の発生過程について直接言及するものではない(つまり概念が神話的でも、それを患者が「内的現実」として了解でき、治療が進行すればよい)。》
《本質的には彼(ドゥルーズ)自身の感覚やアルトーに由来する、器官なき身体の内実を、クラインに従って理論化するとき、その中身は拡張され、個別の症候の構造に規定されたそれぞれの微妙に相違する実体は、差異化可能な強度が歩む、一つの自己産出的な普遍的物語に成長し、逆に症候形成の構造的(科学的)全体は見捨てられる。》
ここには、ドゥルーズに限らず、精神分析を哲学化、あるいは一般理論化する時の問題があるように思われる(精神分析批判は基本的に精神分析の圧倒的な影響下での、その書き換えと拡大解釈としてある)。精神分析が個別の内的現実として既述するものは、あくまで特定の「個体−症候」の機能や組成に関するもの、治療するという観点から「個体」に対して作用するものであって、例えばそれを社会的な現実の構造分析に(何らかの理論操作上の正当な手続き抜きに)そのまま流用することは出来ないのではないか。それは例えば、(個々の主体を支えるものとしての、あくまで個別の)作品や文化的な事象への分析にならば流用可能だとしても、現実的な、社会の有り様や社会的システム、その構築の理念等に関する議論にはそのまま使えるものではないのではないだろうか。
例えば、『権力と抵抗』』(佐藤嘉幸)の第四章「死の欲動、偶然性、抵抗」に描かれているデリダの議論を読むと(そこで取り上げられたデリダのテキストそのものを読んでいるわけではないが)、フロイトがあくまで個人の心的構造の問題として記述している(死の欲動をめぐる)問題系を、「郵便」の比喩を媒介として用いることで、突然社会の問題(抵抗)へと接続し拡張させ一般化しているのだが、そこでの「理論の拡張」を正当化するものが何なのかが分からない。郵便という比喩は、あくまでフロイトが扱っている「心的構造」という問題内に留めるのならば(「思弁」と書きつつも「快感原則の彼岸」は個体の心的構造をめぐる圏域に留まっている、フロイトの思弁は、あくまで個別の事例−症例から要請され、そこから導かれた限りでの「思弁」であろう)、非常に面白くて興奮させられる。しかし、「死の欲動」についての探求が《エスは自らを増大させるために自らを限定する》という認識に行き着くところまでは刺激的なのだが、それが「無抵抗の抵抗」、「残虐性なき無条件なもの」、「純粋な歓待」という社会−国家についての普遍的な理念のようなものへと展開されて行くと、それが「死の欲動」から(フロイトのテキストから)連続的に(それを根拠にして)導かれる理由が、よく分からなくなって混乱してしまう。そもそもそれが、個々人の心的構造についての理論なのか、社会の構造についての理論なのか、それとも(社会変革のための、来るべき何かのための)「イデオロギー」の設立なのかがよく分からないから、それをどう咀嚼してよいのか分からなくなる。
だから、デリダが(というか佐藤嘉幸が?)フロイトラカン)から「郵便」や「偶然」という概念によって「否定」や「欠如」という要素を排除しようとするその手続きをみても、それがこの言説の連結上で(つまり理論として)正当なものなのか、そうではないのかを、判断する根拠がそもそもないように思われる(つまり、その言説は理論というより「美的」なものとしてあるのではないか、と、実際それは、趣味--趣味というのはイデオロギーと同等に常に固有の主体の根本と深く結びついている決して軽くはないものだ--としてなら分かる気がする)。
●とはいえ、ドゥルーズデリダの言説は(というか「哲学」は)、世界の分析−分節−認識であるよりも、世界を「信じる」ための根拠をこそ(それが「幻想」と呼ばれるものであったとしても)探求するもの(つまりはじめから「美的」なもの)なのかも知れないのだが。ドゥルーズ『シネマ2』より引用。
《現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画をつくるのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。(…)引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは変化した世界にむけられるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみとりかえしががつく。ただ世界への信頼だけが、人間を、自分が見かつ聞いているものに結びつける。映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなければならない。》
ラカンにおいては、大他者には斜線が引かれている。大他者の他者は存在しない。大他者の権威を保証するものはどこにもない。つまり、大他者は肝心なところで決して主体を支えてくれない。人は究極的には象徴界を支えに生きてはいけない。そのような大他者の無能力が露呈する場所で、欲望の原因としての対象aがあらわれる。
もし、樫村晴香が書くように、歴史が、《科学的理論の些細な蓄積からなる不可逆の過程として、(今後ますます)いかなる幻想も領域横断的強迫も、「世界に向けたオイディプス(=神経症)の非領域化」も求めずに、音も言葉も発することなく進んでゆく》ことになるのだとするのならば、究極の大他者(の代行者)としての科学的理論の支配する世界で、それぞれに個々の、固有の外傷をもち固有の症候として生きるほかない一人一人の人間は、そのような歴史−世界を(つまり「別の世界、あるいは変化した世界」ではなく「この世界」を)、どのように信じ、それとどのような関係を持つことが可能であるのか。そのなかで、個別の生を、どのような個別の実践として結実させることが可能なのか。そのような世界のなかで、どのような「夢」をみること(あるいは、どのような快楽を構成すること)が可能なのだろうか。そのような問いこそが、哲学では問われているということなのだろうか。