●住んでいるアパートから最寄りの駅まで歩いて十二、三分(軽い坂道)というのは、駅に近いとは言えないが、駅から遠いと言うほどでもない。しかし、駅まで来たところで忘れ物に気づくと、顔をしかめて心のなかで「あーっ」と嘆きつつ一つため息をつくくらいでは、すぐにアパートに引き返すまでには気持ちをもっていけない。こんなに暑いとなおさら。駅の階段の下で立ち止まり、さてどうするかと考えてはみるものの、どうするもこうするも、一度アパートに戻って、また駅まで来るしかないことは分かっている。分かってはいるが、その覚悟を決めるまでにはもう一呼吸、猶予が必要だ。今にも冷房の効いた電車に乗り込むという既に出来上がっている気持ちの方が、往復二十五分くらいの短い散歩だと思えばよいという上書きされた気持ちよりまだ勝っている。アパートに戻るための気持ちを盛り上げるために、近くのコンビニに入ってアイスキャンディーを買う。包みを破ってゴミ箱に捨て、それを囓りながら、足をアパートの方に向ける。そして一歩踏み出し、ゆっくりと歩きはじめる。アイスキャンディーを買ったのは何十年ぶりだろうか。百二十円以上することに軽く驚いた。
●「ユリイカ」を立ち読みしていて、岡田利規が演出したベケットの『カスカンド』に出ていたのが松井周だと書いてあって、「えっ、そうだったのか」と驚いた(『カスカンド』を観た時にはまだサンプルを知らなかった)。そういえば、記憶のなかの『カスカンド』のイメージを検索してみると確かに松井周っぽかったかも、とか思うのだが、きっとそれは、今、この瞬間につくられた記憶であろう。