(日付を間違えました。これが四月二十日の日記で、四月二十日となっているのは四月十九日の日記です。)
●本屋に行ったら「すばる」に松井周さんの小説が載っていたので買ってきて読んだ(「そのかわり」)。日常的な場面からどんどん事態が異様な方向へ発展してゆくというのはサンプルの芝居とかわらなくて、男三人が「おちんちん」をくっつけ合って会話するという微妙に気持ち悪い細部とかも松井周っぽくて、面白くはあったのだけど、それでも演劇作品に比べるとえげつなさが足りないというか、唖然とするしかない、というところまでは連れてはいかれなかった。
それはやはり小説では登場人物の名前があるだけで、「俳優」という強力な武器が使えないということが大きいと思うのだけど(でも、牛久保という名前はそれだけでかなり面白いと思うけど)、それだけではなく、小説というジャンルに対する遠慮のようなものも作用しているようにも思った。
この小説で弱いのはおそらく主人公の職場での場面で、この、職場の状況の書き込みが「現代の労働の現場を描くリアリズム」から充分に離陸出来てなくて(出発点として「リアリズム」があることは、おそらく松井周にとって重要なことなのだとは思う)、パソコンのディスプレイの「赤黒い粘着物」も、いかにも文学的な比喩というところに収まっていて、それが予想外の何かに発展してゆくことがないし、佐々木さんという同期の「色白で太めの女性」との関係も、あまり発展がない。「社内秩序の外にいる」感じを、もうちょっと具体的に描いてほしいと思った。こういうところに、何か「小説(としてのもっともらしさ)に気兼ねしている」という感じがしてしまう。
あと、最後の方にある、絵本のテキストのなかで主人公とタカシが重ね合わされるといういかにも「小説的な仕掛け」も、なくていいんじゃないかと思った。主人公とタカシとの「位置」が同じなのは読んでいけば誰にでも分かるのだから、ここでいかにもな感じの分かり易い着地点をつくらなくても、このテキスト自体をもっと異様な方向へ発展させた方が面白くなるような気がする。
このような「小説への気兼ね」みたいなものが、事態の異様な展開への抑制として働いているように感じられた。もっとずうずうしく「松井周」を全面に出してもいいんじゃないだろうか。でもそのような「気兼ね」は、書いてゆくうちにきっと、だんだんどうでもよくなってくる(というか、それどころではなくなってくる)と思うので、松井さんには今後も、小説もどんどん書いてほしいと思った。
●松井さんは後藤明生の「関係」とか「笑い地獄」とか読んでるのかなあ、と、ちらっと思った。