『インシテミル』(米澤穂信)

●『インシテミル』(米澤穂信)。最初は、設定のあまりの不自然さ(マニアックさ)に引き気味だった。職業作家としてやってゆくには、こういうのも書けないときついのかもなあ、という感じで読んでいた。しかし、退屈なのは一応の「設定」の説明が済むまでで、そこから先は、やはりこの作品はまぎれもなく『さよなら妖精』や『犬はどこだ』や『ボトルネック』を書いた作家のものなのだと納得できた。あまりにもミステリ的過ぎる設定や道具立てがあり、マニア受けを狙うような細部に満ちている(のだろうと思う)にも関わらず、ぼくは途中からは読み終わるまで、ほんの少しもこの小説をミステリだとは意識しないで読んだ。つまり、「謎」に引っ張られることで先へと読み進めるのではなく(あるいは形式的への興味によって惹き付けられるのではなく)、それぞれの場面での人物の動きや言葉、それによって動いて行く関係の有り様、そして状況の変化によって揺れ動く(唯一その内面が描かれる)主人公の感情の変化など、それぞれの場面のもつ力によって引っ張られて読んだ、ということだ。この小説は、いまどき珍しいくらい、ベタに(キャラではなく)「人間(関係)」を真っ正面から描こうとしている小説で、それに比べると、ミステリ的な道具立てなど、どうでもよくなってしまう。あまりにミステリ的な異様な設定は、トリックやガジェットのためにあるのではなく、登場人物たちを限定した空間に閉じ込め、その中での関係を濃縮して浮かび上がらせるためのものに思える。それはまさに、この小説内部で言われているような「人文学的実験」なのだ(横光利一の「機械」とか後藤明性の「笑い地獄」のような、あるいはドストエフスキーのような)。特にこの小説では、少年の成長という要素がない分、この作家の毒が剥き身でころがっているようにも思われる。(この作家の他者に対する視線の冷徹さ、登場人物の誰にも「気を許さない」態度は、時折寒気を感じるほどだ。)米澤穂信の小説は読み口はとても軽いのだが、その内容はひたすら重い。エンターテイメントとして楽しんで、ああ面白かったと本を置いたらすべて忘れてしまえるというようなものではない。強い衝撃ではないにしても、苦い感触がずっと残り、それはじわじわと確実に、読者と世界の関係を変えてゆくような強さがあると思う。
米澤穂信は、ある意味でとても古い感じの作家だと思う。それは、言葉と世界との関係にあまり捩じれが感じられないということだ。多くの、ラノベやミステリの面白さは、その「捩じれ」そのものにこそあるのだが、この作家の場合は、そこには面白さはない。しかしそのことが、ベタに真正面から人間(関係)を描くことを可能にする。この小説が成長物語ではないということは「姉」が出てこないということだろう。そして「姉」が出てこない時の、特に女性に対する突き放し方をみると、この作家は本当は女性が嫌いなのじゃないか、とさえ感じられるほどだ。(それって、エンターテイメント系の作家としては致命的な欠陥なんじゃないかとさえ思える。)つまり、ほとんど「依存関係(愛)」を信じていないように思える。このような作家が、「小市民シリーズ」の次の作品をどのように書くのか、ますます楽しみになった。
米澤穂信の小説の魅力は、一方に血も凍るような冷徹さがあり、しかしもう一方には、世界に対する根本的な「気楽さ」(切迫性の欠如)があって、それらが同居している不思議な感覚にあると思う。気楽さとは、世界へのニヒリスティックな無関心ではなく、世界へのはたらきかけにおいて、常にどこか余裕を残しているような感覚のたとだ。(古典部シリーズや小市民シリーズでの主人公のニヒリズムは、装われたニヒリズムで、彼等は決して世界に対して無関心なのではなく、世界への関係の仕方が分らないから、そのようにふるまうしかないのだ。気楽さは、それとはまた別の、気質として主人公たちに備わっているもののように思う。)リンチ的な切迫性とは真逆の基底的に働いている気楽さがあるからこそ、読者は半ば安心して、この作家の冷徹さを受け入れることが出来るのだと思う。例えば『インシテミル』のラストちかくで、主人公が「犯人」に対してとる行動(献身)は、他者や世界への愛や信頼にもとずくものというよりは、どうとでもなるようにしかならない、というような、自己相対化(自分自身の利害に対する切迫性のなさ)を常に自身に強いるような「気楽さ」によるものだとぼくには感じられた。(しかし、そのような主人公でさえ、<夜>は恐怖し、与えられた<武器>を手放せないという事実こそが、この小説の人間に対する重たい認識なのだ。)