デイビィッド・リンチ『インランド・エンパイア』(1回目)つづき

(昨日のつづき)
●例えば『ロスト・ハイウェイ』の世界の根本にあるのは妻の過去への不信であり、それによって、世界のあらゆる事柄に「妻の過去」へと結びつく何かしらの「意味」があるかのように感じられるようになり、そうなると、あらゆる事柄を「どうでもいいこと」として受け流すことが出来なくなり、人は常に世界の些細な出来事の「顔色」を緊張と恐怖とをもって伺うことを強いられ、そこで生まれる過剰な意味が、いくつもの「あり得る現実」を生み、世界を複数化させ、分離させる。『マルホランド・ドライブ』でも、その底にカップルの相手への不信(ここでは嫉妬や羨望)がある。そしてこれらは、どちらも女性に対する不信であり、その不信は強い欲望と裏腹な関係をもつ。
インランド・エンパイア』においても、その世界を発動させる起因となるものは、夫への恐怖であろう。ここでは、『ロスト・ハイウェイ』とは裏返しに、『「妻に不信を感じているらしい夫」への恐怖』という形になる。『ロスト・ハイウェイ』では、不透明なのは女性であり、男性は、女性の不透明さに対して不信をもち、それは暴力を発動させるまでに至る。(しかし暴力=殺人そのものは描かれず、それをほのめかす暴力の徴候のみが世界を満たす。)『インランド・エンパイア』では、自分に不信をもっているらしい夫からの暴力を、妻は恐れている。夫が、何かしらの形で、自分や自分の不倫相手(だと夫が思っている人物)へ暴力的な行為を行うのではないか、ということが不信のもととなる。そして、夫はそのために常に自分を監視しているのではないか、と。(夫が自分を監視しているのではないかという疑いが、その視線への意識が、自身を分裂させ、自分を見るもうひとりの自分を生み出す。)しかし、妻は何故、夫が自分を疑っていると思うのだろうか。それはおそらく、妻が自分でも意識しないうちに、共演者の男性への欲望を抱いており、つまり不倫を望んでいるからだろう。つまり、夫への不信(夫への恐怖)とは、妻の自身の欲望への恐怖でもある。(リンチの世界では、「現実には」ということは意味をもたない。本当に、夫は妻を疑っているのか。本当に、妻は共演者と不倫しているのか。それらはどうでもいいことで、重要なのは、疑いであり、そこで生まれる恐怖であり、世界の過剰な「意味」化であり、それが強いる緊張であり、この帰結としてある、世界の複数への分離であり、外的環境と切り離されて揺れ動く感情の波の強さである。)こう考えれば、『インランド・エンパイア』の世界は、難解でもなければ不条理でもない。むしろ、人間の内的なリアリティにきわめて忠実である。一方の世界では、妻は、夫からの疑いの視線を感じ、暴力を恐れており、同時に、共演者を欲望している。もう一方の世界では、妻は既に夫からの暴力を受けて(受けつづけて?)おり、そして、自身のよこしまな欲望(それは娼婦たちの世界とのつながりによって示される)への懲罰であるかのように、ドライバーで腹を刺されるであろうことが、あらかじめ決められている。これらは全く矛盾しないで両立する。(ここでも、夫からの暴力は直接には表象されず、ただ妻の顔にある痣によってのみ、それはほのめかされる。リンチにおいては、直接的に描かれないことこそが、もっともリアルであるだろう。)端的に言えば、男性からの暴力への恐怖(しかしそれは、自身の性的欲望と分ち難く結びつき、ほとんど一体化している)こそが、この映画のリアリティの根本にあると思われる。
●ではリンチは、女性が男性から受ける(普遍的に受けつづけてきた)暴力と、それへの恐怖の感情(外傷)を、女性に成り代わって描いているのだろうか。まさかリンチは、そのような「正義」の映画作家などではないだろう。ここでは、男性からの暴力を恐怖し、しかしその恐怖が性的な欲望と不可分であるような女性のイメージを、リンチは欲望しているのだろう。しかしそれは、たんにリンチが自身の快楽を生み出すために、そのようなイメージを対象として必要としているという単純なことではないだろう。(この映画においては、イメージは不当なくらい軽く扱われているように思われる。イメージそのものではなく、イメージの「見えなさ」の方が印象に残る。)リンチはここで、恐怖する女性のイメージを外側から眺め、それを操作しているのではなく、明らかにこの女性とともに、この緊張と徴候が支配する世界の内部にいて、女性とともに恐怖し傷ついているように思われる。(あまりにも近い顔への距離や、イメージがきちんと完成し、成立してしまうことを拒否するかのような、DVカメラによる粗雑な映像は、イメージの成立に不可欠な距離を廃棄したいという強い欲望のようにも思われる。ここでの顔は、誰かの顔なのではなく、ある感情やその強さそのものの形象化であり、同時に肌の肌理やヒゲの手触りでもある。)しかしそれと同時に、女性を快楽の対象にもしている(自身と分離している)ようでもある。(やはりリンチは、主演のローラ・ダーンに「触れたい」と思っている。)ここでリンチの欲望は単純ではない屈折をみせており、それが作品へも反映しているように思う。今までの映画では、常に世界の不透明さそのものであり、不信と恐怖と欲望の対象であった女性(女性のミステリアスさ)が、この映画においては、リンチなりのやり方で分析的に切り込まれ、解析され、謎が剥奪されているかのようなのだ。
●この映画の不断の恐怖(不信)と緊張が支配する世界を救っているのが、後半にあらわれる娼婦たちの世界であるように思われる。(これは、「泣く」ことによって救われることよりも、もっと緩い感じで、「泣く」ことが未だ「生」の側にあるとしたら、この娼婦たちの世界は、「死」に近い場所にあるように思われる。)主人公は、彼女たちと決して同化はしないのだが、しかしこの場所にいる時にのみ、ゆったりとくつろげるというか、安らいでいられるように思う。誰が誰であるか分らないような、匿名の女たちの集団による、女にとっての天国のような場所は、いままでのリンチの映画ではあまりみられなかったもののように思う。(リンチにとって端的に世界はセックスそのものなのだが、セックスは快楽だけでなく、常に緊張と恐怖と暴力とに結びついているもので、だから娼婦というイメージの背後にはいつも暴力の気配が、暴力を支配する男たちの影が、付きまとっていた。)いままでのリンチの映画では、世界の不透明さを象徴する存在はほとんど常に女性であり、逆に、世界の法則を見守る番人であるような黒幕はほとんど男性であったのだが、この映画ではそれが逆転し、世界の不透明さは男性によって担われ(二つの世界での二人の夫、あるいは、口のなかを血だらけにしている男、まったく口をひらかない相談員、サーカスの男たち、監督以上に偉そうな上に何もしていない助監督等々)、黒幕は女性に配分されている(引っ越しの挨拶にくる老婆、テレビショーの司会者、裕木奈江)ように思われる。世界はとことん不透明で不合理であると同時に、あらゆる事柄は既に決定されている、という極端な二つの間でただひたすら受動的になるしかないリンチ的な緊張が、匿名の女たちがだらだらとお喋りしたり、唐突に踊り出したりする、この娼婦たちの世界では、ふっと緩むのだ。いままでのリンチの作品で、この世界に近いものがあるとすれば、『イレイザー・ヘッド』に出て来る「天国ではすべてうまくゆく」を歌う歌手のいるステージくらいだろう。しかしここでは主人公が男なので、この天国的世界の内部には入り込めない。『インランド・エンパイア』でこのような世界が発生したのは、この映画の中心にいるのが女性であるからかも知れない。(特にラストシーンが素晴らしい。まるで今までのことを全てなかったことにするかのように、唐突にバカバカしくも幸福な終わりが訪れる。頭をなでられ、子守唄に送られながら死んでゆくかのような甘美さ。裕木奈江の言葉を信じるなら、この、引退した娼婦の住む館は、ハリウッドからバスで行けるらしい。そういえば『On the Air』もこんな感じの終わり方だった。)