デイビィッド・リンチ『インランド・エンパイア』(1回目)

●立川シネマシティ2で、デイビィッド・リンチ『インランド・エンパイア』(観たのは昨日)。リンチにおいては、時間と空間の秩序は信用されないし、人物の同一性すら信用出来ない。それはいつものことだ。しかしこの映画では加えて、イメージそのものすら、信用されていない。この映画のイメージの貧しさや、その扱いの粗雑さは、今までのリンチの映画を観てきた者を唖然とさせる。それは、デジタルビデオカメラで撮られたことによってもたらされたことなのか、それとも、イメージに対する不信(あるいはそれへの執着の放棄)が、DVカメラを選択させたのだろうか。三時間もつづく映画を観ながら、こんないい加減な演出があるのだろうか、と何度も思う。この映画では、イメージへの不信そのものが形象化されたかのようですらある。
とにかく単調なくらい顔のアップばかりがつづく。しかも、そこで人の顔を捉えるための繊細な配慮がなされているとは思えなくて、とにかく撮れてればいい、という感じ。顔が歪んでピントすら合わないくらいのアップ。あまりにカメラと近過ぎて、顔として認識するよりも、肌の肌理や口や鼻の穴やヒゲとして見えてしまうようなアップ。(触れるようなクローズアップ。比喩的にではなく、まさにレンズが顔にもう少しで触れてしまうのではないかというような異様な近さ。)たんに、それが「顔」だと分りさえすればよい、というようないい加減なアップがあり、それが「顔」だということが崩壊してしまうほどに「近い」アップがある。(テレビを観て泣いている女と、ローラ・ダーンをドライバーで刺す女は、違う人物なのか同一人物なのか分らない。東欧のひげ面の男たちは、誰が誰なのか区別出来ない。ローラ・ダーンの顔が、別の人物になっても常に「顔」のイメージの同一性を保っているのが、この映画における「顔」の唯一の指標であるかのようだ。ローラ・ダーンの顔だけは、決して見間違えることがない。)それに、カットのつなぎも、オーソドックスというか当たり前というか工夫のないつなぎで、つながって見えてればそれでいい、という感じ。何というのか、イメージ(映像)がまったく大事に扱われていないのだ。いわゆる、イメージのフェティシズムのようなものから思い切り遠い映画。
時間や空間の秩序は仮のものであり、人物の同一性も仮のものであり、そして、イメージの質ですらも、この映画では仮のものである。それらはすべてリアルではなく、信用ならない、というか、つまり適当なもの(偽物)でしかない。ここまで徹底してあらゆる「拠り所」が放棄され、「こだわり」が放棄され、それでもなお、作品がつくられなければならないとしたら、それは一体何に依ってつくられているのだろうか。こんなにいい加減な映画なのに、これが「このようにつくられなければならなかった」という必然性のようなもの「だけ」は、凄い強さで迫ってくる。まさに、それ「だけ」の貧しい映画なのだが。
(リンチの映画は、例えばロブ=グリエのような、明らかに偽物であるイメージが、偽物であることを自ら確認しつつ、互いに反映し反転しつつ反響する、というようなものではなく、何というかもっと「強迫的」なものだろう。「顔」というイメージを壊してしまいかねないほどの顔への「近さ」が、その強迫性を示している。あらゆるイメージが嘘くさくて薄っぺらなものでしかないにも関わらず、それらが一定の「ある方向」へと強い力で流れ出してしまうことを誰もコントロールすることは出来ない。この「強迫」性だけは、間違いなくリアルなものなのだ。それは否応無く、イメージの外側、あるいはイメージの向こう側にあって、イメージの明滅の「原因」となっている何ものかの存在を、どうしたって感じさせるものだろう。)
●空間も時間も、同一性も、そしてイメージそのものも、すべて流動的で信用ならない世界では、「言葉」というものが強い力を持つようになるのは必然的だと思われる。リンチにおいて言葉は、法というより、エピソードとして、あるいは、ほとんど「ことわざ」のようなものとしてあらわれ、イメージに「ちょっとした根拠(約束)」を与えるように思う。それは、冒頭近くで、近所に越して来たという老婆によって語られるエピソードとして、あるいは、テレビのショーの司会者の女性によって語られる警告として、また、腹をドライバーで刺されたローラ・ダーンの傍らで裕木奈江が語るエピソードとして、この映画ではあらわれているように思う。それらは、正しさ(法)でも真実(謎)でもなく、たんなるエピソードであるが、言葉によって語られるエピソードによって喚起されるイメージこそが、この映画のなかではもっとも明確で、「頼りになる」イメージとして、指標のように機能していると思われる。
●イメージへの異様な近さ、イメージを崩壊させてしまいかねないほどの近さと、その強迫的な息苦しさいう意味で、この映画はソクーロフの『ファザー、サン』なんかと、案外近い位置にあるのではないか、と、観ながら思った。(決して『太陽』のソクーロフではなく。)『インランド・エンパイア』を圧倒的な傑作と言うのには躊躇があるが、しかしだからこそ、リンチは決して「既に確定した作家」とかではなく、一作ごとに、どこへ行くかわからない不確定さ、不安定さのなかで作品をつくっている、現役の作家なのだと思ったのだった。