07/11/17

平倉圭さんのレクチャーを聞きに、秋葉原にある明治大学サテライトキャンパスへ。九時半からはじまるのだが、九時半に秋葉原に着くためには、七時半には部屋を出る必要があり、そのためには六時半には起きなきゃいけなくて、六時半なんて、下手すると普段は「まだ起きている(寝てさえいない)」時間だったりもする。前の晩、はやく寝るためにアルコールを飲み、でも二時間くらいで目覚めてしまい、仕方がないのでまた飲み、さらに二時間くらい寝る。そんな状態でも、冬の朝の引き締まったような空気は気持ちがいい。こんな朝はやく外に出るのは、ひさしぶりだ。
「分身を追跡する」というタイトルで、現実と映像との関係についての話。ビン・ラディンの映像や9.11の映像を枕にしつつ、『マイノリティ・リボート』『デジャヴ』そしてちょっとだけ『インランド・エンパイア』について語られる。(9.11以降の映画の質的変化を示すため、それ以前の映画として『ファイト・クラブ』も引かれた。)話を聞きながら途中で、こういう話の延長に『インランド・エンパイア』があると思うのだけど、平倉さんはあの映画についてはどう考えているのだろう、と思っていて(「10+1」のレビューは立ち読みしたけど、もっと突っ込んだ話として)、最後にその話がちらっと出たので、ああ、やっぱりつながりを意識しているのだなあ、と思った。でも、そのつづきをもうちょっと聞きたかった。
マイノリティ・リポート』も『デジャヴ』も、現実が映像によって浸食されているような世界の話ではあるけど、その「映像」を使って現実世界について「探偵(捜査)」することが可能だという意味で、現実と映像とはかろうじて切り離されている。(というか、「作品内」で、二つの異なる次元が階層化出来ている。だから、主人公の主体的な行動も可能になる。)でも、『インランド・エンパイア』では「探偵」が存在出来ない。(ローラ・ダーンは一応、男を殺すことで作品世界のなかで何事かを成し遂げ、何かしら解決のようなものをもたらしたようにみえるけど、しかしその殺した男がローラ・ダーンの顔になったりもしていて、彼女の主体的な行為によって何かがなされた=現実がかわった感じとはちょっと違う。)夫がお金持ちのハリウッド女優のパートが「現実」であるという保証もどこにもなくて、実はあのパートこそがいちばん「妄想」臭くさえある。『インランド・エンパイア』は、プリコグの頭のなかの映像を、(人が受け入れ得る最低限の秩序の設定で)どうやって編集以前の状態により近い状態で取り出せるのか、みたいな作品のように思う。『インランド・エンパイア』には「現実」はなくて「映像」のみがあって、その時「現実」は作品の外、つまりその映像を操作しているリンチという存在であり、その映像を浴びせかけられている観客ひとりひとりの存在ということになってくる、と、ぼくは思うのだけど(その時観客は、プリコグに同化してその強度を受け取ろうとしつつ、トム・クルーズとなってそれを分析しようともするという風に、分裂を余儀なくされる)、そこらへんを平倉さんはどう分析するのか(例えばゴダールとどのように違うか、とか)に興味がある。まあ、そこんとこは自分で考えろ、ということなのだが。
●こういう場で、はじめて「質問」をしてみた。質問をするには、何故そのようなことを聞くのかをある程度説明する必要があり、しかしその説明がうまくいかないと、何を聞きたかったかのポイントが(喋っているうち自分でも)よく分らなくなってしまって、結局、質問ではなく自分の意見を一方的に言っただけ、みたいになってしまった。話をするのは常に難しい。