07/11/16

●責任というのは厄介な概念で、何ものかを背負ってしまったとたんに、人はしばしば自らの位置を見失う。いやそもそも、人間にとって、何ものをも背負わないというのは、限りなく不可能に近いことではあるけど。ただ、正しさに対して責任をとろうとすると、その途端、しばしば人は、「正しさ」において語り、あるいは、「正しさ」を代表して語る、という位置から語り、行為してしまう。たかだか一人の人間でしかない者にとって、それが誰であろうと「正しさ」を代表することなど不可能であるはずなのに。むしろ、その「正しさ」が、どのような「邪な欲望」によって要請されているのかこそが探られる(自覚される)べきだろう。不可避的に身体を持つ我々にとって、それぞれの身体が要請する、それぞれに固有の利己的で「邪な欲望」によってしか世界と(他者と、言語と)の接点をもつことは出来ない。だから、決して「正しさ」ではなく、それぞれの「邪な欲望」を引き受ける、ということろにしか、責任はあり得ないのではないか。倫理が、自己(の身体、欲望)に対する自己自身の関係の問題としてまず成り立つという点が確認されてはじめて、他者との関係が問題となるのではないか。邪な欲望に汚染されない「正しさ」はあり得ない。それは、正しさがあり得ないということではなく、邪な欲望のただなかにいることの自覚によって、はじめて(邪な欲望によって限定された)「正しさ」を問題にすることが出来る、ということだと思う。
●「精神分析の反メタ言語論」(立木康介)より引用、メモ。
《主体がなんらかの現実に酷い目に遭わされている、と訴える。その現実は、彼にとっては他者の作り出す現実であり、それについて自分はそもそも関係がない、自分には責任がない、と彼は考えている。これにたいして精神分析は、この「他者からやって来る」現実に、じつは主体自身が----たとえ無意識の水準においてであれ----少なからず加担しており、その現実の生成に文字どおり「主体的に」関与している、ということを、主体に気づかせるように機能しなければならない。こうした「反転」は、分析のはじめの時期にとりわけ重大な役割を演じる。なぜなら、まさにこの手続きこそが、主体に自らの症状を、あるいは、彼の訴える問題のなかでの彼の主体的な立場を、引き受けさせるように働くからである。このような主体的引き受け(assomption subjective)なくしては、精神分析はいかなる意味においても機能しないだろう。》
《主体が外的な、他者からやってくる現実として告げることがらのなかに、主体自身の分、主体自身の荷担が見出されるまさにその点こそ、主体の語らいとこの現実とがひとつに交わる接点であり、この点において語らいに区切りをいれることが。そのままこの現実のなかでの主体の在り方に目印をつけることになるのである。語らいとそれが記述する現実(既に言語的に構成された現実)の間のメタ言語的差異が、こうして取り払われる。そして私たちは、他者からやってくる現実として主体に捉えられていたもののなかで、主体自身の関与が明らかにされるこの脱メタ言語的な地点において、ラカンが「主体の転覆と欲望の弁証法」のなかで告げたあの荘重な格言を思い出さないだろうか----De Alio in oratione, tua res agitur(他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている。)》
《(...)それはなにも、前節で強調したような「主体の分裂」を消し去るということを意味するのではない。むしろその逆である。ドーラの語らいを、他者によって作られる現実についての無矛盾的で閉じられた言語から、彼女自身のことがそのなかで告げられている言語へと変化させることは、必然的に、はじめの語らいが覆い隠している彼女自身の矛盾を明るみに出さずにはおかない。ここにおいてドーラは、言表内容の閉じられた連鎖から弾き出され、その言表を行う者としての主体的な立場を請け負うようにと求められるだろう。》
●「他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている。」というのは、ラカンが、ルネサンスの絵画について、そこには、それを観ている者の眼差しこそが描き込まれている、というのと、同じような意味なのだろう。ここが、リンチとかとすごく関係がある、と思う。