07/11/15

メタ言語は存在しない。あるいは、メタ権力は存在しない。これはおそらく、人間の条件であろう。ラカンの理論などとは無関係に、この感覚は、生きて生活している時の感覚として、分る人には、嫌というほどリアルに分るのではないか。というか、全ての人はこの感覚を分っているのだが、分っていることを認める人と、それを認めない人がいる、ということだろうか。
●例えば、言葉としては同じ「主体の分裂」という事態も、それが「パラドクス」として(「メタなんとか」として)生じる時と、「パラドクス以前のもの」として「最初からある」時とは、まるで質が違う。「作品」を読む(受け取る)時、その違いを感触として感じ取れなければならない。
●「精神分析の反メタ言語論」(立木康介)より引用、メモ。
《だが私たちはここで、「メタ言語」ということばにより正確な定義を与えておきたい。メタ言語とは、なんらかの言語行為や言語的構成物についてなされ、そうした言語的対象の意味や真偽を判定し、しかもそれ自体はそうした判定から免れているかのように振る舞う発言の総体である。》
《「メタ言語はない」というラカンの命題が、大文字の他者の真理を保証するシニフィアンの欠如として私たちに示しているのは、なによりも、言語というもののなかに、本当のことを本当のこととして決定づけるいかなる権威も存在しないということである。むろんこれは、真理が存在しないという意味ではない。そうではなく、真理を真理として肯(うべな)う言葉は、言語を話す誰の口からも(したがって分析家の口からも)、けっしてやってこないということである。それゆえ誰も、どのような団体も、さらにはどのような言語も、真理の名のもとに権威をもつことはありえない。「メタ言語はない」という命題は、究極的には、「いかなる権威も真理によって根拠づけられない」ということと同義なのである。》
《話している主体は、けっして自らの話している内容のなかに存在することはできない。「言表行為」の主体は、「言表内容」の主体と同一ではない。ラカンにおいて、自己述定の不可能性と主体の分裂とは、このように同じことがらをさすのである。
このようなラカンの立場は、言語というものがけっして無矛盾的な、確固たるものではない、という考えに貫かれている。ラカンにおいては、自己述定の不可能性は言語に内在しており、それはある意味でパラドクス以前のことがらである。パラドクスは、上述したように、語(シニフィアン)の同一性を仮定することによってはじめて生まれる。したがって、パラドクスを回避して言語の無矛盾性を保持しようという試みは、この仮定を問いに付することを避けるための努力と言って差し支えない。(略)
シニフィアンの同一性」とはラカンにとって、そもそも維持することのできない(またその必要もない)虚構にすぎない。そのような虚構によって言語の確固性を保とうとすること、すなわち、「パラドクス→自己述定の禁止→メタ言語の想定」と進む理論構築の試み(ラッセルの「階型理論」に代表されるようなもの、引用者追記)は、それゆえラカンとはほとんど無縁なのである。(略)
それゆえラカンが教えるのは、むしろ言語の構造の不安定さと、それに伴う主体の分裂という事実を引き受けるということである。これはとりもなおさず、人間の条件とも言うべきものに向き合うことにほかならない。そうすることによってはじめて、私たちはフロイトの発見した「無意識」を精神分析の経験のなかに厳密に位置づけ直すことができるだろう。》